2月20日エントリでご紹介しましたが、
『愚樵空論』というブログで、「水からの伝言」の一連の騒動で、
「人格攻撃」をしたのは「双方」、などと言われているのでした。
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-206.html#comment2076
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-217.html#comment2034
|その自由は「人として云々」といった類のことへの言及は
|控えることで辛うじて保持される自由ではないかと考えます。
|この禁を双方が破るとどのような事態になるのか、
|私たちは「水伝騒動」でさんざん見てきたのではないでしょうか? (#2034)
すでに2月20日エントリで、お話しているように、
人格攻撃をしたのは、わたしを叩いた側だけだと思います。
こういう認識が広まるのは、とても好ましくないですから、
直接言ったほうがいいと、先方へおもむくことにしましたよ。
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-217.html#comment2064
先方の愚樵氏ですが、「双方」というのは、「一般認識」で(#2069)
「結構正しいものですよ」などと、言ってくれるのでした。(#2074)
そんな「一般認識」があるなら、わたしとしては、たいへんなことです。
多くの人が「双方」と思っているから、わたしはあらぬバッシングを、
1年近くにわたり、受け続けることになったからです。(#2071)
それで、その「一般認識」はまちがいなので、訂正してほしいと、
とうぜんのことながら、わたしは言ったのでした。(#2071)
ところが、愚樵氏は、「事実ではなく文脈が大事だ」とか、(#2074)
わけのわからないことを言って、訂正は拒絶してきました。(#2087)
「文脈」は、事実がどうつながっているかとか、
背景がどうなっているかなど、大局的な流れのことです。(#2082)
それとも愚樵氏は、「文脈」とは、事実を無視して、
恣意的に決めつけることだと言うのでしょうか?
具体的な事例として、いちばん最初の『らんきーブログ』の
コメント欄で起きたことが、「根拠」だと言ってきました。(#2074)
そのときわたしが、さきにぶいっちゃんを人格攻撃した、と言うのです。
わたしは、ぶいっちゃんの記事の、「内容」のまちがいを
指摘したのであって、「人格」について述べたのではないです。
「内容の指摘」と「人格への言及」は、まったくべつですから、
わたしは、人格攻撃をしてはいないでしょう。
騒動のはじめのとき、ニケ氏が「悪意があるから謝れ!」と、
わたしに詰め寄り、ぶいっちゃんが、それを後押ししたのでした。
また、ぶいっちゃんご自身も、わたしのことを、
「多すぎるバカ」という意味のことを言っています。(#2082)
ぶいっちゃんたちは、わたしに人格攻撃しているでしょう。
なんで、わたしが、人格攻撃したことになるのよ?と、思ったのですが、
わたしのコメントを削除(!)しはじめてから書いた、
つぎのエントリがお答えのようです。
「「文脈」と卑怯・人格攻撃のフレーム」
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-224.html
すごく長く書いていて、なんだかわかりにくいですが、
ようするに、「批判されて気に入らなかったら、
人格攻撃されたことにすればいい」ということのようです。
そして、「気に入らない」と、手前勝手に決め付けることを、
「文脈を読む」などと称して、正当化しているみたいです。
愚樵氏は「批判と中傷の区別がつかない」かただったようです。
批判された人が、恣意的に人格攻撃と決め付けるのは、
「権利」などではなく、単なる「逆ギレ」の自己正当化でしょう。
まちがいを受け止められないほうが、狭量なだけだと思います。
こんな「根拠」で、わたしが人格攻撃したことにされるのは、
まったくもって言いがかりだと思います。