3月8日エントリ、「また二次加害」のコメント欄ですが、
taka氏の考えで、とくにすさまじいものとして、つぎのくだりがあります。
(すでにmimiさまが、ご指摘のこと(2009年03月16日 03:17)ですが。)
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対象に強い反感を持つに至れば、激しい批判をすると思います。
そのときの批判者の行動は、手厳しいけど真っ当な批判をするか、
罵倒するか、セクハラ攻撃をするか、運営を圧迫する手段をとるか、
といった選択肢の中からどれかを選ぶというもので、
その選択に応じてそれぞれの責任が生じます。
ここでセクハラを選べばセクハラ行為に対する責任が、
真っ当な批判をすれば厳しい文章を書いた
批判者としての責任が生じるわけですが、
何らかのリアクションをしたという点では、ひと括りに出来ます。
========(2009年03月12日 08:01)
taka氏というのは、議論で反論するのと、セクハラをするのと、
運営を圧迫することが、「ひと括り」にできるのだそうです。
セクハラは人権の侵害ですし、運営の圧迫は規約に抵触することです。
程度がはなはだしければ、警察のお世話になることもあります。
これらが正当な議論とおなじ「括り」になる、などと吐くのですから、
その人権意識の欠如には、開いた口がふさがらなくなってきます。
taka氏は、思い通りにならないことがあると、
規約違反や、セクハラなどの人権侵害も、選択肢に入るみたいです。
「攻撃的で挑発的な女性」にむかついたら、殴って言うことを
聞かせればよい、なんて、本当にやりだしそうです。
「口で争っているときに、相手を殴ったら、殴ったほうが悪い」という
幼稚園の砂場で学びそうなことも、わかっていないようです。
さらにすさまじいのは、法務とか、裁判とか、
taka氏はやたら、法律やら司法やらにこだわることです。
「合法的手段と、非合法的手段は、選択肢としておなじ括り」とか、
「合法的手段でかなわなくなったら、非合法的手段による
反撃もしかたない、それは反撃されたほうの責任である」などと、
違法行為に訴えることを、堂々と主張する人が、
法律を言うのですから、むなおそろしくなってきます。
このように、taka氏は、はっきりしゃべってくれたのですが、
「あちら側」の人たちはみな、多かれ少なかれ、このような感覚を
持ち合わせているのではないかと、わたしは思います。
「死ぬのはやつらだ」氏の、「絨毯爆撃」のとき、
「あちら側」の人たちはみんな、爽快感にひたっていたのでした。
また「ごん」氏が、わたしのコメント欄を荒らして、
「強制的手段」を取ったとき、「ごん氏はよくやった」と持ち上げて、
達成感にひたった人ばっかりでした。
これらの暴挙に対して、「あちら側」の人たちのあいだで、
批判が顕在化せず、反社会性に無自覚な人が多かったのも、
「自分たちが思い通りにならなければ、人権侵害もしかたない、
人権侵害される側の責任である」という意識が
蔓延しているからかもしれないです。
ディスプレイの前で、ひとりもんもんとしていらっしゃるなら、
思いきって声をあげるのが、いいかもしれないです。
同じ気持ちのかたも、ほかにいるとわかって、
心がいくぶん晴れるだろうと思うからだけど。
ということでコメントします。
「自分たちが思い通りにならなければ、人権侵害もしかたない、
人権侵害される側の責任である」とまでtaka様が明示的に思っているかはわからないですが、「たんぽぽ様にも問題はあるだろ!」とは思われていたように感じます。
そうやって被害者に問題があるとして加害者や傍観者が平穏を保つのは確かに「傷つく人を最小限にする」かもしれませんが、私は「傷つく人を最小限にする」よりも「大きく傷つく人を0にする」道を選びたいです(加害者は大きく傷ついてもいいかとも思いますが…)。もしtaka様の言う「最小限」が数ではなく質の問題であれば訂正して謝ります。
>そうやって被害者に問題があるとして加害者や傍観者が平穏を保つ
taka氏の、いわゆる「傷つく人を最小限度」が、
いったいなにを犠牲にして成り立つのか、ですよね...
(こういうかたちで犠牲にされるのが、被害者たるゆえんなんだけど。)
その前に、taka氏は、被害者の受けた傷自体が、
よくわかってないのかもしれないです。
「セクハラの被害は女性ほど理解できない」という意味のことを、
言っていたけれど、自分が理解できないから無視してよい、
という感覚が、どこかにあるのかもしれないです。
さらに言えば、加害者が本当に傷付いているのかも、「?」なんだけど...
この場合、加害者がやっているのは、自己保身なのだし、
それは、「怒った」とか「不快になった」とかであって、
「傷付いた」とは、ちがうものかもしれないですよ。