性欲が本当に本能かどうか?という議論があったのを、
ずいぶん前のことですが、思い出しましたよ。
性欲を懐疑する意見があるのは意外だなと、
そのとき、わたしは思ったものです。
「性欲は本能か?!」
このエントリでは、小倉千賀子氏の
『セックス神話解体新書』が紹介されています。
残念ながら、わたしは本を読んでいないので、
エントリから判断することになって恐縮ですが、
「野生児」と「半陰陽」の子の研究にもとづいています。
野生児というのは、捨てられて「野生」化した人間のことです。
「狼に育てられた」と言われる、アマラとカマラが有名、
と言えば、ぴんと来るかたもいらっしゃるでしょう。
このふたりは、本当は狼に育てられたのではないそうですが、
実在した野生児ではあったようです。
これまで知られている約30人の野生児全員が、
性的関心や性行動をしめさなかったのでした。
これは、彼らはことばを話さないからで、言語によって、
自分のセクシャリティが、教えられなかったからだとしています。
また、半陰陽(インターセックス)の研究をしていた、
ジョン・マネーによると、性自認は3歳までなら変えられるとあります。
この「3歳」は、子どもがことばを覚えるころなので、
性自認の臨界と言語習得の臨界は同じであると、
小倉氏は考え、セクシャリティがことばによって
教えられることの、傍証にしています。
よって、性欲やセクシャリティは、言語を通じて、
後天的に学習するものであって、本能ではないというわけです。
この小倉千賀子氏の本ですが、異論もあることでしょう。
(なにしろ、悪名高い(?)ジョン・マネーが引かれていますし。)
性自認は、生得的に決まる要素があると、言われています。
(ただし、性同一性障害であって、半陰陽ではないですが。)
また、学習によるのだとしても、「3歳」は偶然の一致で、
直接の関係はないかもしれないです。
それでも、小倉氏が誤まっていたとして、言えることは、
「性自認の臨界と言語習得の臨界はなんら関係ない」だと思います。
性自認に、ことばで教えられる部分が
あること自体は、否定されないだろうと思います。
早い時期に半陰陽と判断され、男女どっちつかずで育てられた子は、
言語習得に決定的なダメージを受けるとあります。
おそらく、自分のセクシャリティを教えられなかったので、
性の話題で語るものが、なかったのかもしれないです。
マスターベーションなるものを知らなくて、
成人するまで、一度もしたことがなかった、
という男性も、ときどきいらっしゃるようです。
また、結婚したけれど、子どもの作りかたがわからなくて、
恥を忍んで産婦人科に行った、なんてことも、
いまよりずっと情報のすくない時代にはあったらしいです。
どうも、人間の場合、後天的に学習しないと、
性行動が取れないことも、本当にあるみたいです。
性欲やセクシャリティは、学習に頼っている部分も
かなりあるのではないかと、わたしは思います。
結局、性欲が本能か、本能でないかは、
わたしには、わからないですけどね...
(はっきり言えるのは「人間の性欲は本能でないことはない」と、
断言はできない、くらいでしょうか。)
性欲が本能かどうか解明されると、
なにかさみしいことがあるのかな?
それとも、ここでは言えないであろう、
私的なことかしら?
これはそうであっても淘汰されなかったのが人間であるゆえんで
遺伝子説をあまり重視しない自分の考えとは矛盾しますが
そういう存在も生物学的に許容されたということでしょう。
本能として性欲を持たないとか、
性行動を取らなくなっても、それほど不利ではなく、
淘汰されなかったのではないかと思います。
こう言うと、「じゃあ、ことばを覚える前の人類は、
どうやって子孫を残していたんだ?」と
言う人が、出てくるんだけどね...
わたしが、考えているのは、
「ことばを持ったことで、ことばで性行動を伝えたほうが、
ずっと効率がよくなった、それにともなって、
本能として性欲を備えなくなった」だけど。