こんな記事があるのでご紹介したいと思います。
「ノーベル化学賞:「猪突猛進」陰に内助…根岸すみれさん」
わたしが話題にしたいのは、つぎのくだりです。
これを読んで、根岸英一氏というのは、
ずっと強者の立場でいた人なんだろうなと、わたしは思いましたよ。
家庭では「昔ながらの夫唱婦随」(英一さん)。
猪突(ちょとつ)猛進型で思ったことをすぐに口に出し、
カッとなると時には手も出る夫をすみれさんは「イノシシ」と評する。
一方で、気分転換に夜中でも自宅のグランドピアノで
独学で学んだ「知床旅情」を弾き、大声で歌う。
そうした夫の姿を静かに見守ってきた。
「化学のことは全く分かりませんが、夫のこうした
ストレートなところがいいのじゃないでしょうか」
「強者」とは、どういうことかというと、
自分の考えやカチカンが、まわりに抵抗なく
受け入れられる状況にあり続けた、ということです。
「猪突(ちょとつ)猛進型で思ったことをすぐに口に出」すことが
できるのも、そういうことだと思います。
もっと弱い立場の人は、自分の考えやカチカンを
表明することに、用心深くなる必要があります。
相手によっては、たとえ正論であっても(正論だからこそ?)
理不尽な仕打ちを受けることがあるからです。
「カッとなると時には手も出る」なんて、なんなんだと思います。
自分の考えやカチカンに反発を受ける機会がすくないので、
それが「普遍的な正義」とでも思っていて、
人にも押し付けるのが、その人のためだ、
なんて思っている可能性も、なきにしもあらずですよ。
こういう「エライ人」を見ると、まわりの人たちは、
どうされているかと、わたしは、気になることがあります。
ご家族のかたには、相当にしわよせが行っているみたいですね。
ノーベル賞を取るような偉業をなしとげるには、
このような「強者」なければむずかしいのかと思うと、
わたしは、失望感に見舞われもするのでした。
謝辞:
この記事を教えてくださったかた、まことにありがとうございます。
野依某や江崎某などの思い上がり連中,偶然の運に恵まれ周囲の犠牲に助けられた,というような謙虚さのないこの種の人々は,パピヨンは好かんです。
でも中には謙虚な人たちもおられますけどネ。そういう人たちは別ですたいネ
科学的・学問的業績に対して賞が与えられただけで
その人の人格とか人間性が評価された訳ではないです。
優れた科学者=人間的にも優れた人、ではありません。
アインシュタインだってそうです。
もちろん、嫌な人物と悪評高ければ、賞の選考にも影響することもあるでしょうが、
逆に人間が気にくわないから業績があっても賞はやらないなら変な話でもあります。
日本ではとかくノーベル賞受賞者というと神様扱いで、
その人物の言葉は何でも有り難がる、有り難がらせる風潮があります。
これも事大主義の一種でしょうね。
一般的に考えてみたら,今年受賞の業績はずっと何年も前のことですから,昨年でも良かったわけです。ところが昨年は別の受賞。
ということは昨年は比較の上,負けたという理屈になります。
元々,そんな優劣決定は神様にしかできない(わからない)ことであって,偶然にすぎないことでしょう。これを敷衍すれば,受賞しなかった業績に対しても同じ理屈になります。
多くの受賞者はこのような相対性を理解して謙虚さを持っている(ラッキー!という感じ)と思うのですが,上に書いた江崎某などはそれが微塵もないのです。
たんぽぽさんの記事の趣旨には全くその通りのことだと思います。
ノーベル賞級の研究ではなくとも,会社の仕事最優先ということでも同じ構図が現れますよね。
これらの共通点は「主婦の価値観の完全無視」,その裏返しということですね。
今でもまだまだ根強く残っていると思います。
コメ欄を無駄に重ねて済みませんでした。
平和賞は、いろいろと政治的思惑が入って、
ノーベル賞の中でも、とくにうさんくさいと言われますね。
(このエントリは、賞自体のうさんくささではなく、
受賞者個人のお話だけど。)
>偶然の運に恵まれ周囲の犠牲に助けられた,というような謙虚さのない
>よく見たら,記事の趣旨と大きく外れて来ましたネ。
ああ、いえいえ、エントリの趣旨とはずれている、
ということはないと思いますよ。
家庭だけでなく、職場でも同僚や部下相手に、
「強者」だった可能性は、たしかにあるんですよね。
そうだとすると、人間関係で苦労したことは、
あまりないことになります。
人間関係で壁がないと、たいていのことは
「自分の努力」で、解決できたのではないかと思います。
自分の成功はすべて努力の結果と見なしていて、
「自分には才能もあったが、運もよかった」のようには
考えていないかもしれないです。
そうなると、「成功しないやつは、
そいつの努力がたりないからだ」と考える、
尊大な「自己責任」大好き人間の可能性があるわけです。
(新聞記事を読んだとき、わたしはこのにおいを嗅ぎ取ったのだ。)
>今年受賞の業績はずっと何年も前のことですから,
>昨年でも良かったわけです。
そうそう、1年や2年は前後しても「誤差範囲」なんですよね。
あるいは、ノーベル賞は3人(3件)と決まっているので、
「順番待ち」していたのかもしれないです。
>多くの受賞者はこのような相対性を理解して謙虚さを持っている
日本には、ノーベル賞に対するコンプレックスが、
まだまだあるのかもしれないです。
(受賞者があいつぐようになったのは、21世紀に入ってからだし、
いまノーベル賞を取っている人たちは、
「日本人はノーベル賞が取れない」と
言われ続けたころの研究で、評価されてますし。)
賞が取れることと、その人の人間性はべつですからね。
それでも、すぐれた業績を残した人物は、
人間性もすぐれていると思いがちなところはありますね。
もちろん、業績と人間性を切り分ける以上、
人間性に難があっても、業績がよければ、
賞を取らせるべき、ということになるけれど。
ちなみに、ノーベル賞の選考基準は、
論文の引用された回数で、一般の業績評価とおなじみたいです。
(ぶっちゃけた言いかたをすれば、
ほかの研究者を何人食べさせたか)
なので、わりあい客観的に決めていると思いますが。
>日本ではとかくノーベル賞受賞者というと神様扱いで
前のアルバイシンの丘さまへのレスでもしゃべったけど、
ノーベル賞に対するコンプレックスも、
まだまだあるのかなとも思います。
(このあたりをクールに構えられるようになるには、
ノーベル賞受賞者がふつうに出る状況が
定着する必要があるのかもしれないです。)