差別の一般なメカニズムについて書かれた、
よい記事を見つけたので、ご紹介したいと思います。
http://h.hatena.ne.jp/kmizusawa/9259273279753092783
(はてなブックマーク)
言わんとしているのは、差別とは「社会構造」、
すなわち「カテゴリ間の力関係」の問題であって、
個別の状況や個人の振る舞いの問題ではない、ということです。
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差別というのは社会構造(カテゴリー間力関係)に関わる問題であって、
個別の具体的場面で誰がどうしたとか、個人の悪気のあるなしとか、
実感としてどうだとか、そーゆー問題ではない、ということ
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11月22日エントリでお話した「なぜセクハラをするのか」という
セクハラのメカニズム(いちばんオーソドックスな
男性から女性へのケース)は、男性が女性より上位、
という社会構造があり、そうしたカテゴリ間の力関係を利用して、
男性が女性を従わせようとして起きることになります。
「社会構造」というのはわかりにくいようで、
個別の眼に見える具体的場面とか、個人的な実感で
とらえる人たちが、すくなからずいるようです。
自分に見えることだけで、社会全体の様子を描き、
自分に見えないものは、わりと簡単に「ない」ことにして、
差別の実態を規定してしまう、ということです。
こうしたかたは、差別を「個別の振る舞いの問題」ととらえ、
さらに差別を個人のモラルとも解釈するようです。
それゆえ、「差別している」と言われると、
人格攻撃されたかのように受け止めることもあるようです。
11月6日エントリで、「男全体がそうであるように
見えますので非常に不愉快」というコメントがあったのでした。
「そういう社会構造を背景にしてセクハラがなされる」と、
わたしが主張したからだと言うのですが、
これはむろん、強者カテゴリにあてはまる人が、
かならずセクハラをする、ということではありません。
またこのかたは、自分が見聞できることをもとに、
外国人による日本人男性の印象や、
セクハラ対策マニュアルの内容を否定しています。
まことに失礼ながら、まさに差別を「個別の振る舞いの問題」と、
とらえているかたではないか?と、わたしは思いました。
差別というのは、社会構造が背景ですから、
その社会の構成員全員が、それぞれの立場に応じた
関わりかたを問われることになります。
ところが、このように理解できている人は
残念ながらあまり多くないみたいです。
http://h.hatena.ne.jp/kmizusawa/9259273279753092783
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我々は皆それに関係しているのであり、それを知ったあと、
それに対してどういう態度をとるか
(それを少しでも解消すべく行動したり発言したりするのか、
それとも現状維持を望むのか)が問われているのである、
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これはある種の「社会的洞察力」(他者の視点を受け入れるか否か)を問われることなだけに、その本人の価値観を丸裸にしてしまいますね。例えばノンフィクションを読めるかどうかという能力、というか。「その差別はない」という発言は時に周囲が見えていないことを現してしまいます…が、少しの慎重ささえあれば解決のつくことですね。
差別的視線を感じた友人が不安がって外出を控えていた姿を思い出しました。気遣いは能力の一部、かもしれないと思います。
>これはある種の「社会的洞察力」(他者の視点を受け入れるか否か)を
>問われることなだけに
もっと意地悪く言えば、その人のカチカン以上に
社会的視野の広さが出ると思います。
自閉的で狭隘な社会認識をしていることが、
もろにわかったりしますからね。
自分が直接見聞きしていることは、全体のごく一部
というのは、それほどの想像力がなくても、
察しがつくことなんですけれどね。
でも、ある程度以上の謙虚さは、
要求されることかもしれないです。
あと、「差別はない」と言いたがる中には、
積極的に自分の認識に合わないことは
見ようとしない人たちも、いるんじゃないかと思います。
あと、差別があることを受け入れると何か不都合があるなんて人も「そんな事実は無い」と言いますね。いじめ問題やそれによる自殺などの事件があると、学校関係者や本人以外の保護者、生徒は必ずそう答えますね(苦笑)。
ちょうどリンクした記事に、いじめの例が出ていますね。
http://h.hatena.ne.jp/kmizusawa/9259273279753092783
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具体的に誰かをいじめたとかいじめられているのを
見たとかいうことでもない限り、
「そんな事実は無い」ってことになるし、
見かけたとしても、それはそいつの人間性の問題だ
ということになってしまう
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学校のいじめだと、学校関係者全員の責任になりますからね。
「自分は差別者ではない」と思いたい保身が、
よりいっそう差別の存在の否認というかたちで、
現れやすいと思います。
そういえば、こんなことも書いたのだった
http://lacrima09.web.fc2.com/teardrops/against/dissociation.html
個人的な話ですが、いじめに遭っていてそれがあまりに執拗なので、今で言う「ストーカー」としての恐怖を覚え、教員や役員に相談したものの放置され、結局いじめっ子が「刑事(器物損壊)事件の加害者」になっていくのを目にした経験があります。もちろん警察を呼んで指紋を取ってもらいました。
その被害者として思うのですが、学校にはそろそろ警察を入れた方が「関係者すべて」のためになると思います。
…哀れなことに、かの加害者は中学〜高校時代も荒れてしまい、進学塾に熱心に通いそれを誇っていた彼の過去には信じられないことですが大学にも行かずじまいだったそうです。クラス会で会い本人にそれを聞いた時は、「周囲は自分には無関係だと止めもせず、しかし彼にすべての罪をかぶせてしまったのだな」と実感しました。あまりにも哀れです。私はむしろ「自分は悪くない」としていた傍観者たちと教員にがっかりしました。反芻の機会を失った彼らは一体どういう大人に育っていくのでしょうね?
彼はあの時なんと謝ってきたので怒ってもいないし許していると伝えましたが、刑事事件に発展する前段階として「いじめ」を扱わない世の中には呆れています(※個人の感想です・苦笑)。
こちらにもコメントありがとうです。
貴重な体験談をお聞かせくださり、ありがとうございます。
そのいじめっ子のことと似たようなお話、
わたしの個人的体験にもありますよ。
その子は小学校のころはまじめで、お勉強もよくできたんだけど、
中学校に入って、不良グループにそそのかされて、
いじめに加担するようになって、堕落していきました。
高校は、それまでの成績では考えられないような、
ぱっとしないところへ行ったんじゃなかったかな?
中学校の教師たちは、問題視はしていました。
(それほど効果的な対処はできなかったけど。)
教師や周囲がそれなりに気にかけていても、
堕落するくらいですから、「自分とは関係ない」という
態度でいたら、なおさらかもしれないですね。
警察を入れると言えば、「いじめ」が社会問題として騒がれる前、
「校内暴力」のころ、そうした学校があったようです。
(注:わたしの学校ではない。上述の体験談とは無関係。)
これは自分たち教師が痛い目にあいたくないので、
表面的に鎮圧するという「事なかれ主義」なので、
いじめのとき警察を入れない、というのと
本質的におなじなんだと思いますが。
校内暴力の時代についてもすさまじい話を耳にしています。行動の面では、暴走族のような印象を持っています…
事なかれ主義で教育現場が動いてますが、やっぱり問題が外側に向かって育っていくのを見送っているだけになっていますね。
責任感に潰れてしまう(つぶれかけている)真面目な教員たちと、自分の立場のために事なかれ主義に動く教員、ということを考えると、義務的に毅然とした態度を取るものが校内になければと思います。少年法というものはあれど、成人する前に犯罪の芽を摘まないと、次に刃物が向かう先は…と。
なんか取り留めなくてすいません(汗)。
コメントをくださるのはいつでもOKですよ。
やはり「事なかれ主義」は、多くの学校に根強くあるんでしょうかね?
あるいは、「事なかれ主義」でない学校も、
じつはたくさんあるんだけど、問題を起こして
マスコミざたになるくらいのところは、
「事なかれ主義」に走るところだから、多いように感じるのか。