にせ科学批判に関する、自分の思い出話がいくつか出て来ています。
「人に黒歴史あり」
「或るトンデモ支持者の履歴--科学的懐疑主義に目覚めるまで」
「信奉者だった僕はどのようにして懐疑論者と呼ばれるようになったか」
わたしもすこし書きたくなりました。
たいしたものではないけれど、ご用とお急ぎのないかたは、
ご覧になってみてはと思います。
>幼少時代
物心ついたときには、サンタクロースはいないと思っていました。
ひとりの人間が世界中の子どもたちに、一晩でプレゼントを
配れるはずがない、程度の「懐疑思考」はしていたと思います。
このころから、ひねくれものだったのですね、わたしは。
>小学校〜中学校時代
基本的にオカルトはキライだったと思いました。
信じていないからではなく、気持ち悪いからなのですが。
心霊写真や、「中◯コース」に出て来る
読者の心霊体験なんては、まじめに信じていました。(笑)
スプーン曲げに代表される「超能力」はうさんくさいと思いつつ、
ユリー・ゲラーだけは「本物」だと思っていたり、
なんとも中途半端だったですよ。
>高校時代
ん〜、とくにない。
>大学〜院生時代
1. 松田道弘著『超能力のトリック』を読みます。
これではじめて、ユリー・ゲラーなどの「超能力」には
全部トリックがあることが、はっきりわかるようになりましたよ。
(大学生になって、はじめてこんなことに気がつくなんて、
われながらオクテだと思ったものです。)
このとき「なーんだ」と思って、わたしは「さーっ」と、
なにかが引いて行くものを感じたのでした。
わたしが懐疑派になったのは、このときだと思います。
『超能力のトリック』の著者は、マジシャンだし、
科学者でだまされた人のお話も出て来るので、
超能力を批判するのは、どちらかというと理系ではなく文系、
というイメージが、わたしの中にあります。
にせ科学批判というと、わたしはいまだに、
文系的なアプローチをしているように思います。
2. 大槻義彦著『超能力ははたしてあるか』を読みます。
マジシャン(科学者でない人)が書いた本を読んだので、
こんどは科学者(理系の人)が書いた本も
見てみようと思ったのがきっかけです。
あとがきで、著者がにせ科学批判をはじめた動機が
述べられるのですが、太平洋戦争の壊滅は、
「民主主義」と「科学主義」が日本にたりなかったから、
というくだりに、わたしは感銘をうけます。
民主主義と科学主義は、どちらも実証的態度の
現われと言えるでしょう。
これらふたつは、現代社会の支柱とも言えますが、
「にせ科学」はこの支柱を土台から、壊そうとしているとも言えます。
3. テレンス・ハインズ著『ハインズ博士、超科学をきる』を読みます。
さまざまなにせ科学を列挙して解説をしてある本です。
本屋さんでたまたま見つけたのがきっかけです。
なんとなくおもしろそうだと思ったのですね。
ここでの大きな収穫は、「反証不可能性」「立証責任の転嫁」
「検証への消極的態度」という、にせ科学の
ビリーバーがしめす、3つの特徴を挙げていることです。
これは、あとで夫婦別姓反対派の精神・思考構造を
分析するのに役に立つことになります。
>ネットを触るようになって
1. 『黒木のなんでも掲示板』や、大豆生田氏のサイトを見つけます。
ネットでも、にせ科学批判に関心のあるかたはいるんだと、
ちょっとうれしくなります。
このころのわたしは、ロム専門で、
掲示板に投稿することは、ぜんぜんなかったです。
(わたし風情が書くところではないですしね。)
2. 『週刊金曜日』や『買ってはいけない』のことを知ります。
あちこち見ていると、みんな『週刊金曜日』のことを
知っているようで、かつて購読したことがあって
いまは後悔している、なんてお話をよく見かけます。
ネットを触るようになって、はじめて知ったわたしは、
やっぱりオクテだと、思ったものです。
3. 『週刊金曜日』に関連して、「本多批判派」の存在を知ります。
にせ科学批判をやっていても「??」な人はいるんだと、
ちょっと思ったりします。
これについては、グラムシ会のかたが、よい文章を書いています。
実証的態度の大切さを、あらためて認識します。
日本の場合、広義のオカルトが大まじめな政治的・社会的・道徳的主張のバックボーンになることはほとんど無かったりあっても単発的だったわけで、創造論が大手を振っているアメリカ等とは事情が違っていました。
しかし21世紀になるころから日本でも広義のオカルトが政治的・社会的・道徳的主張のバックボーンとして用いられることが一気に解禁されたようです。
一つには以前の反体制派が政治活動よりもエコロジーとか精神世界とかニューエイジとかに方向転換した1970年代ごろからの伏流がついに表に噴出し始めたのだと思われます。
他はネットの発達で奇矯な説をいくらでもネットに流せるようになって広義のオカルトに触れるのは容易になった点。ネットの世界だけ見ると当たり前の情報・常識的な考えよりも当たり前でない情報・非常識・奇矯な考えの方が突出して目立ちます。当たり前の情報や常識的な考えはわざわざネットに書くまでのことは無いから書かれずにいる一方おかしなトンデモ説はどんどん書き込まれて行く。
だからそのようなトンデモ説を拾って自分の政治的・社会的・道徳的主張のバックボーンにもできるし、それらの主張自体をうのみにしてしまったりすることになるケースも増えてきました。
科学が進んだからこそ広義のオカルトは一掃されたのではなく逆に強化され、ネットが普及したからこそトンデモが広まったといえるでしょう。
ネットにこそ真実があるは、危うい思い込みでしょうね。
長々と書いてしまいましたが、このあたりのことは偽科学論ではないですが
↓
iwatamの何でもコラム
http://iwatam-server.sakura.ne.jp/column/index.html
この方の論考が参考になります。
この方の著書
議論のルールブック (新潮新書)
http://amzn.to/mPTaEf
も数年前に出た本で、ようするに掲示板でバカな議論を仕掛けてくる奴のあしらい方、ですがtwitter登場の現在でも有効でしょう。
>科学が進んだからこそ広義のオカルトは
>一掃されたのではなく逆に強化され、
>ネットが普及したからこそトンデモが広まったといえるでしょう。
そういう面はあると、わたしも思っていたりします。
前者に関しては、理性的、合理的なものが幅を利かせるから、
それのアンチテーゼとして非理性的なものがもたげてくる、
というのもあるでしょう。
後者については、ご指摘のとおり、一般に「とんでも」意見は
偏っているし、偏っているからネットにいっぱい書く、
ということなんでしょうね。
(わたしが、ネットをはじめた最初の頃の印象も、
「ネットにはあやしい情報がいっぱい転がっている」でした。
まともな意見はあるけど少なめなので、
注意して探し出す必要があるなと思ったものです。)
>http://iwatam-server.sakura.ne.jp/column/index.html
>http://amzn.to/mPTaEf
ご紹介ありがとうございます。
これはなかなかおもしろそうですね。
時間のあるときに拝見したいと思います。