社会心理学の教科書に出て来る概念だそうなので、
ご存知のかたも、いらっしゃるかもしれないです。
「公正世界信念について」
「公平世界信念」とは、よいことをすれば、よいことが起き、
悪いことをすれば、悪いことに見舞われるというふうに、
因果のめぐりかたが、つねに公正であるという
信念を持っている、という心理です。
http://frog-beee.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-613c.html
私たちは、私たちの住む世界が、よい人にはよいことが、
悪い人には悪いことが起きる公正な世界であるという
信念を持っており、悪いことが起きた被害者には、
その被害を引き起こす何かがあると考え、その責任を求める
たしかに、よいことをすればつねによいことが、
悪いことをすればいつも悪いことが起きると思いたい、
というかたは、いらっしゃるかもしれないです。
そう思ったほうが、善行にはげむモチベーションになるし、
また悪人に対して「いつか不幸になる」と思うことで
ため息を下げられるので、前向きに生きていきやすくなります。
ところが現実には、よいことをしても、
あるいは悪いことをなにもしなくても、
不幸な事態に見舞われることは、いくらでもあります。
「公平世界信念」は、世の中を正しく表わしてはいないわけです。
「公平世界信念」を持つと、なにが問題なのかというと、
上述のリンク記事を引用した部分の後半です。
悪いことが起きた場合、その人にかならず原因があると考え、
責任を求めようとする、ということです。
たとえば、こないだ話題になった発達障がいは、
(本人の努力と関係ない先天的なものなのに)
「親の育てかたに原因がある」とか「本人の努力がたりない」とか
本人やその親の「責任」に帰するようになるわけです。
「公平世界信念」は、「自己責任論」や
「被害者落ち度論」に傾きやすい考えだと言えます。
さらには、障がいや被差別マイノリティの立場など、
本人の意志や努力と関係のないハンディまで、
その本人の責任と考えるようになりかねないので、
差別的な考えに陥ることさえあります。
>努力は報われる?
「公平世界信念」に関係することですが、
中高生を対象に、「努力は報われると思いますか?」という
アンケート調査が行なわれたのでした。
「そう思う」と「まあそう思う」を合わせて69.1%で、
7割近くが「努力は報われる」と考えていることになります。
「中高生の約7割が「努力は報われる」と回答 特に体育会系男女」
実際には、努力しても報われるとはかぎらないです。
「努力は報われる」というのも、「公平世界信念」の
ひとつのパターンと言えますから、この高い比率には、
わたしはいささかびっくりしたのでした。
まだ中高生なので、社会の壁にぶつかっていないのでしょうか?
楽観的なのかもしれないです。
「なせばなる」という根性主義でもあるので、
体育会系の子のほうが比率が高いのも納得です。
「努力は報われる」と信じている場合ももちろん、
「自己責任論」な考えにおちいる危険があります。
報われないことに対して(運が悪いだけかもしれないのに)
「努力がたりないからだ」と言って、
他人や自分を追いつめることにもなりかねないです。
また、被差別マイノリティの立場にあっても、
「だれでも努力で克服できる」と考えるようになるので、
被差別マイノリティの配慮ができなくなって、
差別に対して鈍感になりかねないです。
また、努力して報われると「自分は努力したんだ」と
うぬぼれることもあると思います。
たしかに努力をしたけれど、運がよかったのも
あるのではないかと、点検する必要はあるでしょう。
「努力できる」というだけで、経済的に恵まれているとか、
被差別マイノリティでないとか、じゅうぶんに「運がよい」
ということさえあるのですから。
大人になってからの努力と言うのは何らかの成果を出す事ですから。(ようは成果無しは努力したとは認められない)
宝くじのように努力が入り込む余地がないような成果でも、当たるように祈るという「努力」をしたから当たったんだ、当たらなかったのは祈りという努力が足りなかった、と結果から判断することができます。
公正世界信念は仏教の「善因楽果」「悪因苦果」の現代的変形だとおもいますよ。
↓
http://d.hatena.ne.jp/Pulin/20100225/1267071483
>「なせばなる」という根性主義でもあるので、
海外でも盛んなスポーツで根性主義を信奉したら、
海外に通用する選手やチームは我が国から出ないと思います。
根性主義を信奉している指導者・選手の学校は、国内で上位になれるか疑問です。
>実際には、努力しても報われるとはかぎらないです。
>「努力は報われる」というのも、「公平世界信念」の
>ひとつのパターンと言えますから、この高い比率には、
>わたしはいささかびっくりしたのでした。
>まだ中高生なので、社会の壁にぶつかっていないのでしょうか?
私はびっくりしませんでした。
非公式の対外試合出場・公式戦ベンチ入り・公式戦レギュラー・公式戦1勝・県内地区大会上位・県大会上位・県大会優勝・(関東などの)地区大会優勝・全国大会上位・全国優勝
体育会系男女が自分の努力に対する「報い」をどの水準に設定するか?
低ければ低いほど「努力が報われる」人数は多くなる。
多くの体育会系男女は、部活動での自分の水準(部活動を続ける中での「壁」)を理解しているでしょう。
そして、部活動を続けるために、自分の水準に見合った「報い」を設定するならば、
「努力は報われる」と感じる中高生は少なくありません。
部活動は必修でない場合が多いので、価値を見いだせなければ辞めれば良い。
文化部や帰宅部へ「所属替え」しても良いのです。
その中で、自分が好きなスポーツを選び、学園生活を通して継続したいと願っている。
そう考えれば、当然の結果のように思えます。
結果が全てなので、そこに、頑張ったから偉いとか、努力ゆえに何かが正当化されるとか、自己責任などが入り込む余地はほとんどないと思っています。
ごりらさんが言っているように、結局は、自分の能力と資質に見合った努力に落ち着くのだと思います。
と言うことを書きます。
私も中高6年間「体育会系男子」でした。
(県内地区予選上位程度でしたが)
高校1年生の夏合宿では、朝練のあと先輩たちのユニフォームやら下着やらを、
「伝統」に従って、洗っていました。
洗濯当番以外は、先輩の道具の手入れをしていました。
その間、先輩方は合宿所で自由時間を満喫されていました。
(体育会では「よくある光景」かもしれません。)
しかし、2年生になったときに、自分の衣類は毎晩通う銭湯のコインランドリーで洗い、道具は校外に持って出て手入れをしていました。
大雑把な理由は、
・自分の衣類を足で洗われたくない。
(1年生は、「伝統」に従って、先輩の衣類を足で踏んで洗ってました。
確かに先輩のパンツを手で洗うのは、私もイヤでした。)
・自分の衣類を他人に洗ってもらうのに抵抗があった。
・お金はかかるが、コインランドリーの方が綺麗に洗える。
(それも入浴中に洗い終わる。)
・自分の大切な道具を自分より未熟な者に手入れさせてくない。
など
しかし3年生は「伝統」に従っていましたので、隠れてやっていました。
(公然とやれば3年生から「制裁」を受けます。)
しかし面白いものです。
夏合宿の終わり頃には、
殆どの2年生が朝練のあと「散歩」に出かけ、
「大きな袋」を抱えて銭湯に通っていました。
かくして、3年生の時には「伝統」がなくなりました。
しかし「伝統」を無くした罰か、私の世代はあまり強くなく、OB会からはよく叱られました。
(公平世界信念を証明?)
ですが、
一流のスポーツ選手(高校生でも「一流」はいます)は
自分のユニフォームや道具を自分より未熟な後輩に任せても安心なのか?
私は一流にはほど遠かったので、未だに疑問です。
(私の部活の同期は不安だったのでしょう。)
感情的には、
道具の手入れなどを後輩にやらせて平然としている人達
(「体育会系体質」と勝手に定義します)は嫌いです。
それだけでなく、
「体育会系体質」は
「根性主義」と共に
スポーツとしての水準が上がる阻害要因になっているのではないかと
強く疑っています。
テーマの中心ではありませんが、
「中高生の約7割が「努力は報われる」と回答 特に体育会系男女」つながりで
ご容赦下さい。
夏の甲子園地方大会はもう始まっていますでしょうか。
坊主刈りにもせず、補欠も「定員割れ」の高校球児が、コールド負けをしながらも、ダイヤモンドを走り回ります。
彼らにとっての「努力と成果」と、
県内選手がゼロの名門校の「努力と成果」とは
同じなのでしょうか?
同じ「体育会系男子」なのですが。
(「坊主刈りにしてねえから悪いんだよ!」って?)
くどいコメントすみません。
野球好きには悪いですが、存在自体がうさんくさいと言えます。
このエントリにコメント、ありがとうございます。
>大人になってからの努力と言うのは
努力したのなら成果があるはず、成果がないのは努力しなかったこと、
というのは、まさに公平世界信念の考えかたですね。
そういう「常識」からは脱却したいものです。
>高校野球は事実上プロ競技ですからねー
ちなみに高校野球は、わたしも好きになれないです。
このエントリにコメント、ありがとうございます。
わたしもこんなエントリを書くくらいですから、
「公平世界信念」というのは、ぜんぜん信じてないです。
よいことをしても、いいことが起きるとはかぎらないし、
悪人がなんら不運にあわずに、のうのうとしていることも
いくらでもあると思っています。
(そのせいか、悲観的になりやすいんだけど。)
そして「なせばなる」とはかぎらない、すなわち努力しても
それが実るとはかぎらないということですね。
(でも、「なさねばならない」、すなわち努力しなければ
なにも実らないのは、事実なんですよね...)
>http://d.hatena.ne.jp/Pulin/20100225/1267071483
ご紹介ありがとうございます。
人には能力差というものはあるし、人によっては
いくら努力しても一定の水準に達せないことは、
いくらでもあることですね。
でも「ありのままの自分を受け入れる」のが
まやかしというはないと思うけれど。
(「ありのままの自分」って、むしろ公平世界信念の
アンチテーゼとしてあるんじゃないかな?)
このエントリにコメント、ありがとうございます。
>古典文学を通して仏教教育を受けている、ということの
うーむ...
わたしが想像するに、たぶん自分からそのように考える、
ということであって、仏教教育を受けている、
というわけではないのでは?と思います。
エントリでわたしが書いたように、社会の壁に当たっていないので、
楽観的というか、考えが素朴なのかもしれないです。
>「因果応報」と対照になるはずの「慈悲」が無いですよね
実際の仏教には、「因果応報」で説明できない現実を
説明するために「慈悲」という概念がある、ということなのかな?
このエントリにコメント、ありがとうございます。
>体育会系男女が自分の努力に対する「報い」をどの水準に設定するか?
自分の意志で目標を変えられる、ということは、
自分の行動の結果として成果が得られるということだから、
むしろ「公平世界信念」的だと思います。
現実には、自分の意志で目標を変えられないことがあるし、
それでもそこに向かって努力をせざるを得ないことも
あるのですから、自分の意志で目標が変えられるのは、
まだまだ「穏健」な世界なんだと思います。
それとも、中学生とか高校生のうちは、
自分の意志で変えられる目標ばっかりだから、
「公平世界信念」を信奉しやすい、ということなのかしら?
>「体育会系体質」は「根性主義」と共に
>スポーツとしての水準が上がる阻害要因になっているのではないかと
ふたつ目のコメントだけど、体育会の世界でも
公平世界信念を信奉することは、本当でしたら
このましくないことだと思います。
ただ、勝負ごとの世界なので、目標を設定して
そこに邁進しなければならないから、
努力するモチベーションを維持するために、
どうしても「なせばなる」という信念を
持たざるを得なくなるのかもしれないです。
それから、ごりらさまの個人的体験のお話ですが、
ユニフォームをコインランドリーで選択したことと、
チームが弱くなったことは、直接の関係は
いくらなんでもないでしょうね。(笑)
返信下さりありがとうございます。
>ユニフォームをコインランドリーで選択したことと、
>チームが弱くなったことは、直接の関係は
>いくらなんでもないでしょうね。(笑)
OBを含めて、そう思って下されば良いのですが。
私は「関係ない」と思ってますが(笑)
>中学生とか高校生のうちは、
>自分の意志で変えられる目標ばっかりだから、
>「公平世界信念」を信奉しやすい、ということなのかしら?
会社の倒産や親のリストラ等は、
子供の目にはどう映るのですかね。
>OBを含めて、そう思って下されば良いのですが
え?じゃあ、関係があると思っている人もいるんですか?
>会社の倒産や親のリストラ等は
どう思うのか気になりますね。
返信下さりありがとうございます。
>>OBを含めて、そう思って下されば良いのですが
>え?じゃあ、関係があると思っている人もいるんですか?
思ってないでしょう(そう願います)。
「難癖」「言いがかり」です。
お騒がせしました。
「体育会系男女が世界公平信念を信じやすい」とは
思いません。
ただ「体育会系体質」や「根性主義」は、
目的に対する合理性を重視しないので、
世界公平信念を受け入れやすい精神的土壌を作るかもしれません。
話は飛びますが、
「カリスマ経営者」と言われる方でも、
世界公平信念に馴染む方々はいるんじゃないですか。
スポーツなんかは典型でして、不器用だった人間ほど指導者に適任だったりするからね。
>「体育会系男女が世界公平信念を信じやすい」とは
>思いません。
でもエントリでご紹介した、中高生対象のアンケートだと
「努力は報われる」と考えている子は、
体育会系のほうが多めなのですよね。
>「カリスマ経営者」と言われる方でも、
>世界公平信念に馴染む方々はいるんじゃないですか
そういう人は、「自分は努力したから成功したのだ」と
考えていることが多いでしょうからね。
「成功しないやつは努力をしてないからだ」と
考えていることも、ありえるだろうと思います。
うーん、私のとこにレス書いてみました。
相手が自分より未熟である時は何かしら本人に原因があると考えるけれども、同時にそれを見ている自分も試されており「慈愛を以って接するか否か」でまた「因果応報」があるとされているようです。
いい結果を結んだのは自分の努力「だけ」が理由だと思うのは、傲慢ではないかと個人的には思いますが…。他人からの協力や気遣い、環境、タイミングなど他の要素はてんこ盛りです。
>クラブなどの小規模集団での精神的な伝統重視は、
>結果が出せないときの言い訳になるんですよ。
なるほど。そうなのね。
わたしは、勝負ごとがかかった部活は経験ないんだけど、
それはなんとなくわかるような気がします。
>見当違いの努力でない限り、結果を出そうとする努力は無駄にはなりません
まじめに努力していれば、結果が出なくても
なんらかの得るものはあることは多いでしょうね。
ただ、目標とした努力が実ったのではないので、
「公平世界信念」の「公平」ではないのだろうとは思いますが。
>「慈愛を以って接するか否か」でまた「因果応報」があるとされているようです。
なるほど。
努力が実らなかった人に対する攻撃的態度は、そうやって防ぐのですね。
>他人からの協力や気遣い、環境、タイミングなど他の要素はてんこ盛りです
わたしも、自分の努力以外の要素がすくないことって、
ほとんどないように思います。
ほぼ自分の努力だけで、結果を出せることに
邁進できるのは、かなり幸運なのではないかと思います。