という主張を展開する人を、見かけることがあります。
そしてそういう「伝統回帰論」には、へきえきしているかたも、
これをご覧の中には、たくさんいらっしゃると思います。
そのような「伝統回帰論」を見かけたとき注意すること、
すなわち、疑ってみたほうがよい3つのことが
挙げられているので、ご紹介します。
伝統的な◯◯に帰れ論を拝聴するときにはまず、@それは本当に伝統なのか?わりと新しめではないか? Aその伝統なるものの利益は万人が享受できたのか?誰かを犠牲にしていなかったか?もしかして享受できてたのは一部の階級だけじゃないか? くらいは疑ってみた方がいいと思う。
— まさくず (@nan_kan) 2012, 7月 14
Bあとほんとに帰れるのか ですよね
— totuka (@htotuka) 2012, 7月 14
>(1)それは本当に伝統なのか?
ここでやり玉に挙げたいのは、「夫婦同姓」ですね。
これが日本の伝統だと信じている人は、日本古来からのものだと
思っていそうですが、実際はよくご存知のように、
明治に入ってからというわりあい新しいものです。
また、「夫が外で働き妻が専業主婦」というのも
「伝統的な家族」と信じられがちです。
これも、日本で定着したのは最近になってからで、
高だか半世紀前、高度経済成長期からのものです。
「親学」に出て来る「伝統的な子育て」にいたっては、
いつの時代のものなのかも、はっきりしなかったりします。
わたしが見たところでは、いわゆる保守的な人たちが
「伝統的」と考えがちなものは、
a. 明治以降
b. 高度経済成長期以降
のいずれかが、多いように思います。
なぜa.や、b.のように、わりあい新しいものが
「伝統」と信じられるかは、いくつか理由がありそうです。
そのひとつに、自分が物心ついたときからそうなっているので、
あたかも大むかしから続いてきたことのように錯覚する、
ということがあるのではないかと思います。
また、現代のわたしたちは、明治維新を起こした人たちが
作った体制を継承しています。
それから、高度経済成長期というのは、
戦後改革の担い手となった人たちの時代です。
ようするに、a.とb.は、日本の保守本流の時代なので、
これらのカチカンが「伝統」と信じられやすいのでしょう。
>(2)その伝統の利益は万人が享受できたのか?
「夫が外で働き妻が専業主婦」という「伝統的な家庭」の
時代においては、いまのような雇用均等法もなく、
女性の賃金は男性よりずっとすくなくてとうぜんでした。
総合職と一般職という区別があって、
女性は一般職に回されるのが通常でしたし、
お仕事の内容も、お茶くみやコピー取りなど、
まったく責任のないことばかり、というのもざらでした。
そもそもが、女子社員は男子社員の花嫁候補と
されるような会社もたくさんあったくらいです。
言うまでもないことですが、こうしたことを見て来ると、
高度経済成長期の「伝統的な家庭」というのは、
女性の犠牲の上に成り立っていたことは、
あきらかだろうと思います。
一般に古い時代というのは、社会が未成熟ですから、
構成員全員の幸福を実現できないことが多いです。
それで、たいていは構成員のだれか(通常は弱い立場の人間)を
犠牲にして、特定の人たちだけの幸福を計ることで
社会を統合せざるを得なくなります。
むかしから続いている「伝統」とは、このように弱者の犠牲を
固定化させたものを維持していることが多いので、
万人が利益を享受できないことが多いことになります。
特定のだれかを犠牲にした社会システムが
不健全であることは言うまでもないでしょう。
それを「伝統」の名のもとに正当化する人たちは、
おうおうにして、だれかの犠牲の上に、
利益を吸い取る側であることが多いです。
>(3)本当に帰れるのか?
「夫が外で働き妻が専業主婦」という「伝統的な家庭」を
現代において実現しようとすると、
男性の年収は600万円以上が必要だとされます。
ところが、現代の男性の平均年収は、300-400万円程度です。
また、高度経済成長期の「伝統的な家庭」の時代は、
経済がつねに成長を続け、終身雇用が定着していました。
雇用が安定しているので、片働きでも、
安定した家庭を作ることができたのでした。
現在は経済成長なんてほとんど見込めないし、
不況続きで、いつリストラされるかわからないです。
雇用が不安定なので、片働きはリスクが高いですし、
そもそも結婚に踏み切れない人も増えています。
「江戸時代の生活に帰れ」なんて極端なことを
言う人もたまにいますが、そこまで言わなくても、
高だか半世紀前の高度経済成長期の「伝統」でさえ、
いまから帰るのは、ほとんど無理なことがわかります。
「伝統に帰る」なんて、たいてい不可能と思っていいでしょう。
一般に社会の変化は不可逆です。
一度変化したものは、もとに戻せないことが通常です。
「伝統に帰れ」などと言ったところで、
それは往々にして、現実から逃避した、
あまいノスタルジーにすぎないことが多いと思います。
積極的な肯定する理由が見つからないので、
正当化のために「伝統」と言っていることもありそうですね。
「夫婦同姓は日本の伝統」というのは、
まさにそうなのだろうと思います。
ここに猿を使ったおもしろい実験があるんだけど、
ここに出て来る「わかんない。ここではそうするのがきまりだから」
というのと、おなじようなものかもしれないです。
http://youpouch.com/2012/07/18/73733/
例えば、もし「日本の文化」を「天皇の権威」にかけて他の文化で生活している人に要求したとしたら、それは昔カトリック教皇がしたことと何ら変わりないんですよね。神道の方はカトリック教会を随分意識…否、時々敵視なさっていますけど(笑)。
キリスト教で一番古い「正教会」の礼拝は一度拝見したいとは思っています。ロシア語は全然ダメですけど、人々の信仰がこの遠い地まであらゆるルートを通って聖書と典礼、教師たちを連れてきたのだと思うだけで素晴らしいものがあるように感じます。
>「日本の文化」を「天皇の権威」にかけて
>他の文化で生活している人に要求したとしたら、
「夫婦同姓は日本の伝統」と言って正当化したり、
高度経済成長期の「標準家族」を「伝統的な家族」と
言ったりするのも、この手の「要求」をしていることに
なりそうですね。(「天皇」は関係なさそうだけど。)
>キリスト教で一番古い「正教会」の礼拝は一度拝見したいとは思っています
そういえば、正教会がいちばん最初なのでしたね。
日本ではいまひとつなじみが薄くなっているけれど。
それと、このエントリを興味持ってくださって、
どうもありがとうです。
http://mmmimpact.blog.shinobi.jp/Entry/36/
ところで、ギリシャ正教会は京都市内、裁判所の近くにありますよ。司祭は日本人です。素敵な聖堂です。山下りんのイコンもあります。ぜひお運びください。
東京のニコライ堂も日本正教会です。
いえいえ、こちらこそ。あ、でも一部の人だと思いますが「天皇家男子は娶った女の苗字を失わせるんだから空白の姓があると考えられる。だから日本人全員がそれに従うべきだ」という話のしかたを聞いたことがあります。日本人だけど神道ではない人の存在を忘れているんだと思いますが(笑)。神道の人だけがそれに従えばいいと思ってます。
>御光堂さん
そうなんですよね。総本山は無い、でも直接遺されたものを伝えている、という点で昔は正教会に惹かれたことがありましたが、いかんせん教会が遠い。少ない。せめてベッドタウンレベルの町にひとつくらいあってくれれば…。北日本に生まれていればあっちに行っていたかもしれません。そんなに遠くに、毎週日曜日の午前中なんて行けるわけないよーとプロテスタントの近い教会に所属した経緯があります。リアルな話、ある程度現実生活も大事にしなきゃいけないので、これがいいかなと自分では思ってます。
ロシア語は実際歌で使ってるらしいと伝聞で聞いてます。今は…もう使ってないのかな?もしどっかで情報見かけましたら教えてくださいm(_)mあんまり情報がないんですよね。直接行くのが一番だけど数年は無理そうです。
そういえば。時々、あれっと思うことに、世の中では正教会vsカトリックvsプロテスタント(メインライン)vsプロテスタント福音派vs異端、となっているらしいのですが、大多数の「にほんにいるふつうのクリスチャン」は「近所だから」という理由で教会を選んでますね。
キャー!話ずれまくりました。スイマセン
わたしのブログにコメント、ありがとうございます。
>「伝統」の正体って、大体大した年数ないですね
最初に伝統が定着しはじめたころを知らない人たちにとっては、
1年前からだろうと、100年前からだろうと、
「自分がその社会に属したときから定着している」ことに
変わりはないと言えますからね。
それで、実際は歴史の浅いものであっても、
「かなりのむかしからそうなっている」ように
錯覚してしまうのかもしれないですね。
>これは分かり易いなあと思いました
前のコメントで猿の実験の記事をリンクしたけれど、
「伝統」というのは、おうおうにして
「わかんない。ここではそうするのがきまりだから」という理由で
信じられていることが多いのではないかと思います。
http://youpouch.com/2012/07/18/73733/
外から批判されないと、その「伝統」を守ることに
合理性がないということは、なかなか気がつかないもの
なのかもしれないです。
>各国の正教会がそれぞれ独立しているという位置づけなので、
そうなのですよね。
正教会は「ロシア正教会」とか「ギリシャ正教会」とか
「アルメニア正教会」とか、国ごとになっている。
>日本正教会となっています。
>東京のニコライ堂も日本正教会です。
日本の正教会も「日本正教会」となっているのですね。
またまたコメント、ありがとうございます。
>「天皇家男子は娶った女の苗字を失わせるんだから
>空白の姓があると考えられる。だから日本人全員がそれに従うべきだ」
天皇家はもともとイエ制度の頂点とされていたけれど、
現在の夫婦同姓強制は、そのイエ制度の名残りと考えれば、
同姓強制は、「天皇の権威」にかけて要求していると
言えることになりますね。
>大多数の「にほんにいるふつうのクリスチャン」は
>「近所だから」という理由で教会を選んでますね
多くの日本人は、宗派の違いを気にしないということなのかしら?
プロテスタントとカトリックと正教会って、
だいぶ違うように思うけれど。
いずれにしても、そうだとすると、数がすくない正教会は、
信者をあまり集められないことになりますね。
>キャー!話ずれまくりました。スイマセン
ああ、いえいえ。
ぜんぜん構わないですので、遠慮なくコメントを
いただけたらと思います。
>>空白の姓があると考えられる。だから日本人全員がそれに従うべきだ」
>天皇家はもともとイエ制度の頂点とされていたけれど、
>現在の夫婦同姓強制は、そのイエ制度の名残りと考えれば、
>同姓強制は、「天皇の権威」にかけて要求していると
言えることになりますね。
実を言うと、「イエ制度」の外側に立っている私はそんな感覚になります。まあ、キリスト教徒にとってはこの世は仮住まいなので何も表立っては言いませんけど…まるで神道・日本仏教以外が日本にいないかのように振舞われていて、正直不満です。
>多くの日本人は、宗派の違いを気にしないということなのかしら?
>プロテスタントとカトリックと正教会って、
>だいぶ違うように思う
信仰の内容は大して違わない、というのは私が「エキュメニカル派」だから言えることかもしれません。ただ、世界的にエキュメニカル派がメインラインであることははっきり言えるので、「大体そんな感じ」くらいに思っていただければ。
キリスト教では教派は「信仰の姿勢」のことであって、信仰する神様は同じですから…信仰する相手の違う日本仏教とはかなり「派」というものの質が違うと思います。
それぞれの違いについてちょっとエントリ書いてみました。
http://mmmimpact.blog.shinobi.jp/Entry/37/
エントリ内で紹介したこちらのページがわかりやすいかも。エントリではちょっと現代の実際の状況を書いてみました。
http://homepage3.nifty.com/yagitani/kurihon/kurihon18.htm
わかりやすいのが、例えば、プロテスタントは、それぞれの教派に所属したまま「福音派(厳格な行動の制限がある聖書信仰)」と「エキュメニカル派(聖書信仰に基づくが正教会やカトリックから伝統を引き継ぐ、信仰そのものを重視するもの)」に分裂しています。「どこの派だからゆるい」、「ここの派だから厳しい」、「どこの派だから伝統的だ」、「ここの派だから伝統的でない」といったラベルづけは簡単にはできなくなっています。ただ、私の所属する教派には福音派は無いようです。
正教会は日本に約1万人の信徒がいるそうです。多いと見るか、少ないと見るかは人によって違いそうです。私は、教会の少なさを思うと充分多いと思います。
>実を言うと、「イエ制度」の外側に立っている私はそんな感覚になります
ヒエラルキーの外側にいるから、「メインストリート」にいる人たちの
無神経さが、よくわかるということですね。
>それぞれの違いについてちょっとエントリ書いてみました。
>http://mmmimpact.blog.shinobi.jp/Entry/37/
宗派の違いについては、ご解説ありがとうございます。
>http://homepage3.nifty.com/yagitani/kurihon/kurihon18.htm
こちらもご紹介ありがとうございます。
見てみたけれど、これはすごい圧巻ですね。
わたしには、ついていけないかも、です。
>普段見ると私も「研究者向けだなあ」と思いますよ
なるほど、専門のかたが使う表なのですね。
それで、わたしには、レベルが高すぎたのね。
伊藤博文はイギリスの慣習法に影響を受け、伝統こそが法なのだという考えに基づき、古事記から読み直し帝国憲法を作ったんですよ。
伝統の成文化が帝国憲法です。
万人が享受できる権利というものはありません。
民主主義と国家主権は対立するのです。
どのように権力を分配するかという問題こそが対立の根源であり、伝統に基づいて形作った秩序なのです。
あなたの考えは占領憲法の権利のばらまきやキリスト教的理想主義に影響された現実を無視した考えです。
わたしのブログにコメントをくださるときは、はじめにご挨拶と
簡単な自己紹介をいただきたく思います。
>維新は伝統の総決算です。
>伊藤博文は
ずいぶんといい加減なことをおっしゃってますね。
帝国憲法はプロイセン・ドイツの憲法を参照して作られたものです。
明治時代は欧米列強に「追いつけ追い越せ」の時代でしたから、
日本古来の伝統なんて、すっかり軽視されていましたね。
>万人が享受できる権利というものはありません
基本的人権はすべての人に等しく与えられた権利です。
民主主義社会は、基本的人権の徹底した状態をめざすシステムです。
基本的人権と民主主義は現代社会に生きるわたしたちが、
最大限尊重しなければならないものです。
特定の人の犠牲の上に成り立つ社会というのは、それだけ不健全です。
あなたはご自分が犠牲になると決まったら、それにあまんじるのでしょうか?
あるいは、「どんな社会でも自分が犠牲になることはない、
犠牲になるのはつねに他人だ」とあなたはお考えなのでしたら、
それはとんだ思い上がりと言わざるをえないですね。