ご紹介がすっかり遅れたけれど、
『水島広子から皆さまへ』で、おもしろい記事を見つけましたよ。
民主党やそれを取り巻く人たちについて、わたしがなんとなく
思っていたことなのですが、それを指摘してくださった感じです。
「政権与党とメディアと野党」
http://blog.goo.ne.jp/mizucx/e/7d09a62ec98d41519638e6466ea96883
ここでは、政府与党の役割には、大きくふたつあるとしています。
|一つは、公権力を持つ政府としての役割です。
|この場合、対立する相手は、権力の行使を受ける国民ということになります。
|もう一つは、与党という政党としての役割です。
|この場合、対立する相手は、取って代わり得る、野党という政党になります。
これによって、政府与党と向き合う、国民やメディアも、
前者の「公権力を持つ政府」に対して、「公権力を監視する目」、
後者の「与党という政党」対して、「政権を選択する目」という、
ふたつの立場が、出てくることになります。
民主党をはじめとする、野党はどうなのかというと、
やはり与党の役割によって、ふたつの立場があることになります。
与党の出す法案に対しては、その内容によって、
公権力の監視の意味で反対するか、より優れている法案を出して、
比較検討させるかのふたつが、出てくることになります。
民主党の場合は、前者は「対決路線」、後者は「対案路線」と、
言われているものが、それに当たるでしょう。
ところが、「公権力の監視」の立場のほうが、好ましいときまで、
対案を出すことに、民主党はこだわるきらいがあるようです。
(「教育基本法」のときも、対案路線に走らないで、
対決路線を前面に出したほうが、よかったかもしれないです。)
これは、かつての野党が、反対ばかりで対案を出さないために、
万年野党に留まったことへの反省が強いからだと思います。
このあたり、「『対案路線』だけが政権交代を可能にする、
という思い込みは、民主党がここのところかかっている
一種の病気のよう」と、水島氏は書いています。
そもそも、まっこうから反対するか、対案を出すかは、
与党の出かたに応じて取り分ける、「オプション」のはずです。
「対決路線か、対案路線か」なんて、政党の基本姿勢が、
二者択一になっていると考えること自体、おかしなことだとも言えます。
それともうひとつ、メディアのありかたについても、
水島氏は問題視しています。(いや、こちらのほうが大事かも...)
政府自民党の、事務所費の濫用といったスキャンダルが、
このところ(あいかわらず?)さわがれていますが、
このときの与党の役割は、まちがいなく「公権力を持つ政府」です。
したがって、野党も「公権力を監視する目」の一員として、
国民やメディアによる追求に、参加することになります。
ところが、どうしたことか、マスコミはこのときも、
「政党対政党」と問題をすりかえて、政権の中枢にいる閣僚の疑惑と、
民主党の疑惑を、同じレベルで報道してしまうのです。
(年金問題のときに、管直人氏が、代表を辞任することになったのも、
このパターンだったのでした。)
こうした状況が続くと、「公権力を監視する」意識が、
国民のあいだから損なわれることを、水島氏は危惧しています。
また、マスコミのかかる風潮を支える原因として、
民主党の対案路線へのこだわりも、一役買っているとも考えています。
(柳沢氏の「産む機械」発言の追求のとき、
管氏の「生産性が低い」発言を、同じように批判するのは、
この意味でも、好ましくないことになるでしょう。)
わたしはテレビを見ないから、わからないのですが、
『愛川欽也のパックイン・ジャーナル』は、どういう番組なんでしょ?
あちこちのウェブログを見ていても、話題にならないけれど、
(こういう目立たない地味なものばっかり、わたしは好きなんだな...)
とてもまともな番組のようですよ。



悪法に対案も何もないと思います。
「二大政党制」も全国紙とテレビが叫んでいる制度です。
二大政党が新自由主義政党で対米隷属の売国政党だったら政権交代しても意味がありません。
という訳で、全国紙やテレビが言う「正論?」の逆をいきましょう!
トラウマになっているのかもしれないです。
万年野党体質から脱却できていなかったので、
政権担当能力がじゅうぶんになくて、瓦解したのもありますからね...
マスコミや世論のほうは、1990年代に、
「カイカク」を唱えて、政界再編をくり返したのに、
結局、自民党政権の延命に利用されただけなので、
「オール与党」にすぎなかったという失望が、あったのでしょう...
そのあいだに、「対案を出せないのはだめ」
「やっぱり野党は信用てきない」という認識が、
定着していったように思います。