いちばん最初につぎのコメントをいただいたのでした。
これについては、3月17日エントリで一度取り上げています。
このときは、「相対主義」を持ち出して、自分たちの加害性を
薄めるのはとても許されることではない、というお話をしました。
ご自分達も日本でしっかりと慰安婦を利用していた事実が
ある事を横においての非難決議ですか?さすが米国人ですねwww
(2013年02月11日 01:04)
このコメントは、日本の敗戦直後に連合国軍のために作られた
「特殊慰安施設協会(RAA)」のことであることが、はっきりしました。
それでここでは、RAAがどういったものかについてお話したいと思います。
RAAについては、以下のエントリに簡単に述べられています。
「RAAの話題をドヤ顔で持ち出す人は「従軍慰安婦」の基本書すら読んでない」
また吉見義明氏の『従軍慰安婦』の194-202ページでも触れられています。
ご覧になるとよいでしょう。
「1. 敗戦直後の連合軍用慰安所」
結論を言うと、RAAはじつは日本が作ったもので、日本の責任が大きく、
これを持ち出して日本軍の従軍慰安婦の加害性を相殺しようとする
「相対主義」は、まったくナンセンスということです。
>RAA設置の経緯
RAAにはつぎのふたつの、日本軍の従軍慰安婦にはない特徴があります。
とくに1.については、被占領国の側が自発的に慰安施設を
設置するのは、ほかには例が見られないのではないかと思います。
1. 日本側が自発的に設置した。
2. 連合国軍の指示で閉鎖されている。
連合国軍が日本に上陸するのは、1945年の8月28日ですが、
8月18日に連合軍のために慰安所を設置することを指示しています。
ようするに連合国軍が来る前から、連合国軍に頼まれもしないのに、
日本政府は率先して準備をはじめたことになります。
日本政府がRAAを設置することに積極的になった背景には、
「連合国軍が上陸したら日本の女性が強姦されるかもしれない」
という不安が、日本国民のあいだで蔓延したことがあります。
かかる不安があったので、動きが早かったのでしょう。
こうした不安の「根拠」としては、太平洋戦争で日本軍兵士が
アジア・太平洋地域で強姦事件を多く起こしたことがあります。
「軍人とはそういうもの」という認識に加えて、
今度は自分たちがやられるという疑心暗鬼があったのでしょう。
連合国軍が上陸してからは、実際に強姦事件が起きたので、
これもかかる不安に拍車をかけたのでした。
それで自分たちの成員の一部を、「人身供養」として
連合国軍に差し出すことで、残りの多くの女性たちの
身の安全をはかろうとしたのでした。
もちろん、日本軍が従軍慰安婦制度を持っていたので、
「軍隊には慰安所を」という発想がすぐに出てきたのでしょう。
ところがじつは、日本軍の従軍慰安婦制度は、
日本軍兵士の強姦を防ぐのに、ぜんぜん役立たなかったのでした。
慰安所を設置してもうまくいかないのは実証済みだったのです。
それにもかかわらず、日本国民はRAAの設置を支持し、
日本政府が積極的に進めたということになります。
もちろん強姦を防ぐために、自分たちの一部を犠牲にするという
やりかたの非人間性は、言うまでもないことだと思います。
敗戦後の混乱やショックもあって、日本人はこのあたりについて
集団ヒステリーに陥っていたのかもしれないです。
国民、とくに女性の中から、自分たちの保身のために、
自分たち以外の女性を犠牲にしてRAAに提供しろという声が
出て来たという事実は、わたしにはとりわけ衝撃的でした。
日本政府の指示は、RAAは都道府県と警察が指導と援助を行ない、
売春業者が実際の運営に当たれというものでした。
また、のちに船舶振興会を興すことになる、
笹川グループという右翼団体が、積極的に資金提供をしてもいます。
RAAは警察、右翼、売春業者が連携して運営していました。
8月28日にはRAAの設立宣言式を、皇居前広場で行なっています。
(どうやら不敬とは思わなかったようですね。)
その後毎日新聞に広告を出し「特別女子従業員」の募集までしています。
また北海道警察は報告書で、RAAは「円滑に運営されつつある」
などと書いて、悦に入っていたりします。
このようにRAAは、当時の日本人にはなんら疑問を持たれることなく、
公然となされていたことがわかります。
>RAAの閉鎖
RAAは連合国軍によって閉鎖されました。
1946年3月25日に、正式にRAAの利用を禁止する布告を出しています。
連合国側がRAAの利用を停止しなければ、
日本がみずから閉鎖に動くことはなかったでしょう。
閉鎖の理由は、連合国軍兵士に性病が広がったことが大きな原因です。
しかしそれだけでなく、その前の1月21日に、連合国軍総司令官が
「公娼廃止に関する覚え書き」を出したこともありました。
「覚え書き」を出した背景には、国内世論の反発を防ぐのもありそうです。
とくにアメリカ合衆国は女性に参政権がありましたから、
女性の尊厳という観点からの批判も影響力があったのでしょう。
このころには、まだ女性に参政権のなかった日本には、
思いつかないことだったかもしれないです。
RAAは日本の主導によって設置されてから、7ヶ月で閉鎖されました。
「公娼廃止に関する覚え書き」が出たのは5ヶ月後です。
この動きは、実態調査の時間や、連合国軍の組織の規模、
日本とアメリカ本国との距離を考えると、
わりあい早かったのではないかと思います。
>RAAにおける日本の責任
こうしてみると、RAAはそれを利用した連合国軍よりも、
日本側の問題であり、日本の責任のほうがずっと大きいとわかります。
設置を推進したのが日本政府ですし、設置の動機も日本人女性が
襲われたくないという、日本側の保身が目的です。
慰安所を作って強姦を防ごうというのも、
日本人の女性観や性に関する意識の現れです。
日本軍の従軍慰安婦制度は、あきらかに日本人兵士の性的欲求のためです。
植民地や占領地のためではないですし、
また植民地や占領地の側が、設置を望んだものでもありません。
これだけでもRAAを持ち出したところで、日本軍の従軍慰安婦を
「相対主義」で相殺はぜんぜんできないことがわかります。
『従軍慰安婦』の202ページでも、「連合国軍が進駐した地域の
多くの人々びとがその設置を要望し、短期間のうちに
全国の主要都市に設置されていったという事実は重い」と、
当時の日本人の責任が大きいことに触れています。
謝辞:
3月17日エントリのコメント欄で、このエントリについて
ご紹介してくださり、またRAAについてコメントをくださった
七重さま、まことにありがとうございます。
日本の女性参政権は、1945年12月17日ですので微妙ですが一応ありますな。
>日本の女性参政権は、1945年12月17日
微妙ではあるのですよね。
RAAを作るお触れを出した1945年8月18日には、女性に選挙権はなかったですね。
あと、初の選挙は1946年4月10日なので、RAAを閉鎖するまでのあいだに、
女性が投票した選挙がなかったのもたしかですね。