8月18日エントリ「運動の潰し方教えます」には批判もありました。
つぎの一連のツイートがそれです。
わたしが見たかぎり、これがいちばんまとまった批判だと思います。
https://twitter.com/han_org/status/369290128260210689
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以下、この記事について。/ 運動の潰し方教えます: たんぽぽのなみだ〜運営日誌
http://taraxacum.seesaa.net/article/372352763.html
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はじめに白状をしておくと、この一連のツイートは、
わたしにはしばし難解で、すっかりわかったというわけではないです。
わからないところが残ったままだけど、たぶんこういうことではないかと
思うところをお話する、ということをお断わりしておきます。
最初のほうのふたつのツイートを見ると、一連のツイートのかたは、
わたしのエントリを「理想の追求」と「現実への妥協」とのあいだの
二項対立と考えているようなのです。
https://twitter.com/han_org/status/369293391852339200
https://twitter.com/han_org/status/369295193364647936
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この記事の著者は、おそらく同じマイノリティは多かれ少なかれ「問題」
(記事内のレトリックで言えば「Aという差別」)を共通に抱えていて、
その「問題」を解決するために同じマイノリティは
共闘できるはずだという認識を前提としている。
これが一つ目のイデオロギー。ある種の共同体主義だ。
そして、対立的なイデオロギーを「理想」(ある種の空論)と記号化して
批判対象とする一方で、自説は「より現実的な成果を手に入れ、
すこしでも救われる人を 増やすためには、
ある程度の妥協もときには必要」と正当化している。
これが二つ目のイデオロギー。反・反共同体主義とでもいうのかな。
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わたしのエントリに反発する人は、ほかにもちらほら見るのですが、
こうした人たちももしかすると、この問題を「理想」と「現実」の
二項対立ととらえているのかもしれないです。
そのようなとらえかたをすると、わたしのエントリは、
つねに「現実」を取ることを主張し、そのために「理想」を容赦なく
切り捨てるという乱暴な主張、ということに見えるもののようです。
わたしはこの問題を取り上げるにあたっては、
「理想」と「現実」の二項対立という考えかたはしなかったです。
ここでは「理想」というのは、「完全な到達は無理だけど、
いくらでも近づこうと思えば近づけるもの」と、わたしは考えています。
それゆえリソースの限界によって、理想に近づくのを
どこで打ち切るかという問題が出てくるということです。
わたしはより理想に近づくための主張のしかたとして、
1. 「Aの差別反対」の中にある「Bの問題」を本気で解決したいと思っている
2. 「Aの差別反対」の足を引っ張るために「Bの問題」を持ち出している
のふたつがあるとしています。
1.は建設的な主張で、2.は論難のための主張とも言えるでしょう。
1.は顧みる意義のある主張であり、問題になるのが2.のケースです。
1.と2.のどちらになるかは、その主張の内容や持ち出す動機や
リソースの限界によって、そのつど判断されることになります。
最後のほうを見ると一連のツイートのかたは、1.のタイプの主張をしていても、
2.のタイプの主張に集約されると考えているようです。
https://twitter.com/han_org/status/369302918731546624
https://twitter.com/han_org/status/369303617431289856
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例えばこの記事だと、「2. 「Aの差別反対」の足を引っ張るために
「Bの問題」を持ち出している」ケースを批判しているように書いてはいるけど、
「理想論」みたいな粗い批判のロジックだと「1. 「Aの差別反対」の中にある
「Bの問題」を本気で解決したいと思っている」ケースも含まれてしまう。
そして、「1. 「Aの差別反対」の中にある「Bの問題」を本気で
解決したいと思っている」ケースを、粘着質の口だけ理想論さん扱いすることは
決して適切ではないし、それが適切でない以上、批判の効力も無効化されてしまう。
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このように考えるのも、この問題を「理想」と「現実」の
二項対立と考えているからではないかと、わたしは思います。
さきにお話したように、二項対立の考えでいけば、わたしのエントリは、
「理想」をすべて切り捨てる主張ということになります。
よって1.の主張をしていても、「理想論」として切り捨てられることになり、
2.のケースと区別されなくなる、ということになるのでしょう。
さきほどの繰り返しになりますが、わたしは「理想」とは
「いくらでも近づこうと思えば近づけるもの」と考えていて、
「現実」と二項対立するものとは、とらえなかったのでした。
そして「理想」にどうやってどこまで近づくかという問題が出てきて、
「理想」へ近づくための議論のしかたとして、
1.と2.のふたつのタイプが出てくる、ということです。
1.のタイプの議論は、もちろん否定をしていないです。
2.のタイプの議論が運動を潰しうるとしているわけです。
「理想」へ近づくための議論はすべて破壊的だからやめるべしと
言いたいのではないことも、あらためて言及しておくことにします。
一連のツイートをなさったかたは金明秀氏。
計量社会学を研究なさっていて、民族問題やナショナリズムにも関心があります。
専門家のかたから、わたしのつたないエントリを
まじめに考察していただけたのでして、とても光栄かつ恐縮しています。
https://twitter.com/han_org
「Whoso is not expressly included」