はてなブックマークが900以上付いて、かなり話題になったので、
いまさらですが見て行きたいと思います。
「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない」
(はてなブックマーク)
ようは日本社会は赤ちゃんを歓迎していない、というお話ですよ。
真新しいお話ではないと思いますが、おなじようなことを感じているかたは、
たくさんいらっしゃることと思います。
こないだもマタニティマークが嫌いな人のことをお話したのでした。
この人は妊婦さんに席を譲るのがよほど気に入らないようで、
マタニティマークを付けている人を見ただけで不快感をあらわすのですね。
はては「偽装妊婦だ」とか根拠のない言いがかりまでつけるくらいです。
妊娠に対する無知をさらしているのが嫌になってきます。
「マタニティマーク嫌い」
ベビーカーに対する風当たりも強いものがあります。
ベビーカーを押して電車に乗ると、邪魔者扱いされて
「たため」とかやかましく言われることがあります。
さらには通勤電車となれば、「ベビーカーを乗せるな」とも言われて
もっと邪険に扱われることもめずらしくないことです。
赤ちゃんが泣くのは当然ですが、それもまたうるさがられて
電車に乗せるなとか、飛行機に乗せるなとか、クレームを付ける人たちがいるのですよね。
こうした人たちがいると、赤ちゃんがいる人はほとんど外出が
できないことになりますが、赤ちゃん連れでも外出する必要はありますから、
権利の大いなる侵害にもなると言えるでしょう。
かかる赤ちゃんに対する風当たりは、やはり日本人が顕著のようです。
欧米の民主主義国をはじめ諸外国では、妊婦さんや赤ちゃん連れの人を手助けするのは、
「無形の義務」とか「支払って当然の税金」とおなじような感覚があると言います。
日本よりずっと赤ちゃん連れの人も快適に街中を過ごせるのでしょう。
いまの日本社会くらい赤ちゃんの存在が歓迎されなければ、
日本で少子化が進むことの原因のひとつになることはあるだろうと思います。
じつのところ、日本社会は少子化に対する危機感が、
あまりないのではないかと、ここでもあらためて思うことになります。
世論調査で93%が、少子化は日本の将来にとって
「深刻な問題だ」と答えたというのは、本当なのかという気がします。
それとも例によって、赤ちゃんに対して風当たりが強いのは
全体のうちのごく一部であり、ネットだとそういう人が多数集まるので
よく眼につくようになる、というパターンなのでしょうか?
記事でははじめに、アルフォンソ・キュアロンの
『トゥモロー・ワールド』という映画が紹介されます。
子供が産まれなくなった近未来を舞台にしたいわゆるディストピア映画だ。
全編に絶望感が漂う中、(ネタバレ同然のことを書いてしまうが)
最後の方で内戦で荒れ果てた市街地に赤ちゃんの泣き声が鳴り響く美しいシーンがある。
響き渡る泣き声が、人びとの荒んだ心を洗い流し、憎み合っていた者たちが赦しあう。
状況によっては気持ちをいらだたせる赤ちゃんの泣き声が、
ここでは天使の歌声のように人びとを希望に導く。
18年間子どもがまったく産まれなくなり、恐慌状態からテロや内戦に
明け暮れるようになった世界で、とつぜん聞こえてくる赤ちゃんの泣き声。
現代の日本社会においては、うっとうしい騒音のように扱われる
赤ちゃんの泣き声が、ここでは希望を与えるのでした。
まさに赤ちゃんが心の底から歓迎されているわけです。
この映画ほど感動的ではなくても、少子化が深刻となっている日本社会でも、
赤ちゃんの誕生はもっと歓迎されていいはずのことなのですよね。
(この作品を記事の最初で紹介しているのが、現代の日本社会とのあいだで
よいコントラストを引き立てていると思います。)
「赤ちゃんにとって厳しい社会」は「母親にとって厳しい社会」でもあります。
子どもの虐待は、核家族で子どもとふたりきりでいる時間が長いゆえに
母親にストレスがたまりやすいことはよく言われています。
実際、共稼ぎ世帯より専業主婦世帯のほうが、
子どもの虐待の発生率が高い、というデータがあります。
「親の就労形態と子の虐待」
ところが子どもの虐待があると、母親の「自己責任」として責められるのが相場です。
父親その他の責任が顧みられることもほとんどないです。
ここに「子育ては母親がやるのが当然」として、
母親に子育ての責任をすべて押し付ける発想があることがわかります。
さらには「母性本能神話」や「3歳児神話」の影響で、
子どもを虐待する母親を「異常」とする発想があることも考えられます。
2月8日エントリで、人間の子どもは育てるのに負担がかかるから、
母親だけで子育てするのはひじょうに困難なので、
父親や祖父母、きょうだい、近所の人たちの協力が必要であり、
人類は進化の過程でそのように適応してきた、というお話をしています。
「性別役割分担は合理的?(3)」
ハフィントンポストの記事でも、人間は大脳が発達したため未熟のうちに
産まれるので子育てに手がかかるがゆえに、母親だけに子育てを押し付けず、
さまざまな人たちの協力が必要であることを、妻が姉妹どうしで助け合ったことや、
あちこちでおばちゃんやじいちゃんが子どもたちを見てくれる
小さな島の例を引き合いに出してお話しています。
このように日本社会が赤ちゃんや母親に厳しいのは、
例によって高度経済成長期の標準家族を「理想」とする幻想が
まだ残っているからではないかと、わたしは考えています。
「母親」についてはさんざん考察していますし、言うまでもないでしょうね。
標準家族においては、核家族のもとで妻は専業主婦となって、
子育てに専念する役目を負うことになっています。
子どもを虐待する母親は、この「妻の役目」から逸脱しているがゆえに
攻撃されるのもあるのでしょう。
「赤ちゃん」の場合ですが、標準家族幻想のもとではずっと家にいて、
母親のもとで過ごす存在となっているのではないかと思います。
よって赤ちゃんを連れた母親が出勤するということはないし、
赤ちゃんは外出して公共交通機関に乗ることはないとされているのでしょう。
それゆえ公共交通機関に妊婦さんやベビーカー連れの人が来たりすると、
「来るべきでないところへ来た」と思われて、邪険に思われるのかもしれないです。
記事に出ている「昔ながらの島の暮らしの方が子育てしやすい
皮肉な状況」というのは、この島では高度経済成長期に標準家庭が
実態としても幻想としても定着しないまま現代にいたったから、
ということもあるのでしょうね。
高度経済成長期の家族観は、企業社会のありかたと
わかちがたく結びついているし、子どもを社会全体で育てる
という観点からも、企業社会の協力が必要不可欠です。
たとえばつぎのように、赤ちゃんに寛容になればよいというのですが、
これがいまの日本の企業風土でどのくらい実現するか、とは思うのですよね。
満員電車にベビーカーを押して母親が乗ってきた。
じゃあその周りの5人くらいは電車を降りて、みんなで空間を作ってあげればいい。
遅刻したら堂々と「ベビーカーに譲ったので」と報告して、
上司は「それはよいことをしたね」と褒めればいい。
記事では人口減少がGDPを引き下げることを引き合いに出して、
赤ちゃんのために少々譲ったほうが、日本経済のためにはかえって効率的としています。
ところが、日本の企業は残業にはやたらルーズなくせに、
遅刻には異常なくらい潔癖という特徴がありますし、
よその赤ちゃんのための遅刻を、はたしてどれくらい許容できるかと思います。
高度経済成長期の家族観は、男女の性別役割分担が特徴的ですが、
同時に職場と家庭をきっちりと分離させることでもあるのですよね。
家庭に関することを、職場にいっさい持ち込まないことで、
企業で男たちは効率よく働けると考えられたからです。
「職場と家庭の厳格な分離」という「高度経済成長期的な企業観」から、
どれだけ脱却できるかという問題にもなりそうです。
「少子化は問題だ。」と言いながら「ベビーカーで通勤電車に乗るな。」とか言ってる連中は、要するに少子化が問題であることも、その対策も、他人事としか感じていないのでしょう。
ま、政府の少子化危機突破タスクフォースからして、「若い女、子供産んどけ。」的な他人任せ方針を採択しようとしていたくらいですから、一般市民が他人事的感覚でしか少子化問題を捉えられなくても仕方ないのかもしれません。
仕方ないのかもしれませんが、とても寂しいことだと思います。
>ご紹介頂いた記事は、逐一「そうだそうだ!」と、頷きたくなる内容でした。
>本当に良いですね。ご紹介ありがとうございます
リンクした記事、読んでくださってありがとうございます。
>要するに少子化が問題であることも、その対策も、他人事としか感じていないのでしょう
少子化が問題なら、赤ちゃんを邪険にしていいはずがないのに、
なんで妊婦やベビーカーをうっとうしがるのかと思っていたのですが、
ようは自分と関係ない「他人ごと」と思っているのかもしれないですね。
それで赤ちゃん育てるのは自分と関係ないところでやってくれ、
と言いたいのかもしれないです。
>政府の少子化危機突破タスクフォースからして、
>「若い女、子供産んどけ。」的な他人任せ方針を採択しようとしていたくらいですから
例のタスクフォースも、少子化を「女性個人の問題」と
考えているわけで、「他人ごと」扱いと言えますね。
これも世間一般の「少子化問題は他人ごと」感の反映と言えるかもしれないです。
そういう感覚を持っている人たちは少子化も別に気にしてなくて、社会に迷惑をかけるような子供なら要らないといった認識なんじゃないですかね、
>育児は社会から切り離されたところで母親のみが行え、というのが
そうなのですよね。
母親と育児している子どもも社会の一部なのですけれどね。
このあたり、高度経済期の家庭観の影響があるのだろうと、わたしは見ています。
>そういう感覚を持っている人たちは
育児は自分のいる「社会」とは「別世界」という認識なら、
「少子化」も自分と関係ない「他人ごと」という認識になりそうですね。
もっとも少子化を問題視している人でも、育児は「社会」と「別世界」と
思っているなら、「少子化対策は大事だが、子どものことは
相応の隔離された空間でやってくれ」と考えるだろうと思います。
「男の自分の役目は外で働いて、
お金を持ってくること」であり、
「直接子どもとかかわるのは女である
妻の役目」とこころえていたと思います。
昭和の男たちは、家で子どもといっしょに
遊ぶことさえ、ろくにしないのが
ざらにいたのではないかと思います。
休みの日は家でごろごろしている、
ということですが。