8月2日エントリで、国連人権委員会の日本審査についてお話をしました。
さらに8月8日エントリでは日本政府は審査の主旨を理解していないらしく、
いつもおなじような官僚答弁を繰り返すことを、お話したのでした。
「国連人権委員会・日本審査」
「国連人権委員会・日本審査(2)」
もうひとつ、審査に対する日本の姿勢に関しての一般的事項として、
特筆することがあると思ったので、お話したいと思います。
「【メモ】国連・自由権規約委員会による日本の第6回報告審査の様子
(とくにヘイトスピーチ関連)」
https://twitter.com/three_sparrows/status/489400672282877952
https://twitter.com/three_sparrows/status/489401014814924800
https://twitter.com/three_sparrows/status/489401349163859968
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【国連・自由権規約委員会】議長
「2つの問題がある。ひとつは、繰り返しのプロセスが継続していること。
勧告が考慮されない、行動もとられない。同じことが繰り返される。
資源の有効活用とは言えない」
【国連・自由権規約委員会】議長
「もうひとつは、人権の尊重が資源にかかっているように思われること。
日本のような先進国でそのようなことが起こるのは不思議。
代用監獄の例はそのひとつ。(代替施設を設ける)資源がないために
代用監獄に入れているということだった」
【国連・自由権規約委員会】議長
「代用監獄は、起訴側が自白を求めるために維持しているのではないか。
それだけが理由だと思う。明らかに規約に矛盾している。
可視化の問題についても資源の話が出ていた」
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日本を含めて現代のいわゆる先進国では、人権を尊重するために
資源(リソース)がたりないことはないと考えられているのですね。
前近代の社会においては資源がたりないので、
社会の構成員全員の人権が保証できないことも多かったのでした。
そこで構成員のだれか(通常は弱い立場の人間)を犠牲にして、
特定の人たちだけの幸福をはかることで、
社会を維持せざるをえなくなることが、しばしばあったのでした。
(前近代というほどむかしではないですが)、19世紀のアメリカ合衆国に
奴隷制があったことは、「構成員のだれかを犠牲にして
社会の維持をはかる」というひとつの例だと思います。
南部では奴隷労働に頼らなければ、経済が維持できない状況だったのでした。
「伝統」とされるものに差別的な要素が多いのも、
社会に資源がたりないゆえに、構成員のだれかを犠牲にしないと
社会が維持できない「未熟な」状況ににあったので、
その「犠牲」を「伝統」として固定化したことによります。
「伝統回帰論への懐疑」
現在でも開発途上国であれば、人権尊重のための資源がたりない
「未熟な」状況にあることも考えられるのでしょう。
ところが先進国であれば、だれかを犠牲にする必要のある
「未熟な」状況ではなく、人権尊重のための資源はじゅうぶんたりる程度に
社会が成熟していると、国際社会は考えているということです。
付記:
リンクした最初のツイートでも「繰り返しのプロセスが
継続していること。勧告が考慮されない、行動もとられない。
同じことが繰り返される」とあります。
毎回おなじような「官僚答弁」を繰り返していて、
勧告にしたがって国内の人権状況を改善しようとしないことが
言われているということです。