2014年10月19日

toujyouka016.jpg 終戦直後の感覚に帰れ?

少子化対策に関する、かなりあきれた記事を見つけたのでご紹介します。
無責任で論外なのですが、はなはだ残念なことに、おなじことを考える人は
ときどきいるようなので、ここで話題にすることにします。

「低収入でも子供を産み、育てられる「発想の転換」」
(はてなブックマーク)

 
きょうびは経済的事情で子どもを持つことができず、
結婚もできない人たちが増えています。
それが少子化の原因であることは、わたしも何度もお話しています。

かかる経済的事情を克服するための「発想の転換」なんて
覇気のいいことが書いてあるのですが、
具体的にどうするのかというと、「終戦直後に帰れ」ですよ。
出生数が多かった時代を持ち出して、「その時代に帰れ」と言うパターンですね。

http://www.j-cast.com/kaisha/2014/10/16218490.html?p=2
しかし終戦直後などは、日本人はもっと貧乏で、子供だって5人も6人もいました。
それでも、子供は育てられます。というか育ちます。
生き物ですから、食べ物さえあれば育ちます。

私たちはもう一度、終戦直後の感覚を取り戻すべきです。
若者は貧乏になったのですから、貧乏でも子供をうめるように
発想を転換していくべきです。

敗戦直後は中絶が多かったことを、このかたはご存知ないのかと思います。
つぎのサイトに、敗戦直後の10年間が出ていないですが、
1955年以降の中絶件数と中絶実施率の推移が出ています。
グラフの最初の1955年がいちばん多く、以後は減少を続けています。

「出生数と中絶数をだらだら並べてみたり そしたら少妊娠化がみえてきた」

出生数・中絶数・中絶率の長期推移


なぜかくも中絶が多かったのかというと、ベビーブームのためです。
戦中は「戦時人口政策」という富国強兵策のために、
「産めよ増やせよ」が奨励されていました。
その余波で敗戦直後の出生ラッシュとなったのでした。

敗戦直後の混乱期で子どもを育てる余裕のない人が多かったのでしょう。
当時は厳格に中絶を制限していた母体保護法のために、
闇の中絶が横行することになり、1948年に優生保護法を施行して
中絶を受けられる範囲を拡大することになったのでした。

「優生保護法の成立(昭和23年)」

『<非婚>のすすめ』(森永卓郎著、講談社現代新書)の24ページに、
そのときの様子がすこし述べられています。
1948年9月から施行された優生保護法が、
条件付きで人工中絶を容認したことがきっかけとなった。
1949年にわずか10万件だった人工中絶は急激に増加し、
ピークを迎えた1955年には117万件と、
その年に実際に生まれた子供の数の68パーセントにも達したのである。

しかもこの中絶件数は公式に届け出があったものだけで、
闇に葬られてしまったものを含めれば、
中絶数は出生数を上回る200万にものぼったとする説もある。

上述のグラフの最初の1955年が中絶件数のピークだったのですね。
優生保護法の施行によって、統計で把握できる
中絶件数が急激に増えることになったのでした。
優生保護法の施行前はなおさらですが、
施行後も闇で行なわれた中絶もたくさんあったでしょうから、
実際の中絶件数はもっと多かったと考えられます。


敗戦直後の人たちはお金がなくても気にせず、
子どもを作っていたのではない、ということです。
彼らもまた「貧乏人の子だくさん」なんて、
とてもやっていられないと思っていた、ということです。


現代において、子どもの福祉や教育のことを考えずに、
「子どもは産めば育ちます」などとやったところで、
中絶はもちろん、赤ちゃんの遺棄や育児放棄が増えるだけでしょう。
まさに記事のかたが倣えと言っている敗戦直後が、
それを証明していると言えるでしょう。

posted by たんぽぽ at 22:18 | Comment(4) | TrackBack(0) | 家族・ジェンダー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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この記事へのコメント
 中絶だけじゃなく「捨て子」も多かったのじゃないかしら?そういう統計って無いでしょうかね?

 私が子供の頃(昭和40年代)読んでいたマンガは捨て子や孤児院と話が多かったです。
 児童施設にランドセルを送ったタイガーマスク運動がありましたがあの元になったマンガの「タイガーマスク」の主人公も孤児院で育って覆面レスラーになり、自分が育った孤児院を救うために行動する話でしたね。

 
Posted by イカフライ at 2014年10月19日 23:59
 あと貧乏人が多かった頃は貧乏人の受け皿もあったんですよ。
 かつて「金の卵」と呼ばれた人たちが中卒で地方から都会に集団就職してきましたね。勿論、彼らは学歴による差別を受けたりもしたでしょうが、それでも社員として雇う企業も沢山あったし、職人に弟子入りして一生ものの手に職をつけることが出来たわけです。
 今、中卒者の就職先なんてゼロではないにせよ、本当に少数じゃないですか?

 まあ日本がもっと貧乏のドン底になったらわかりませんけど。
Posted by イカフライ at 2014年10月20日 00:03
イカフライさま、
このエントリにコメントありがとうございます。

>中絶だけじゃなく「捨て子」も多かったのじゃないかしら?
>私が子供の頃(昭和40年代)読んでいたマンガは捨て子や孤児院と話が多かったです

統計ではないけれど、こんな資料がありますね。
やはり捨て子は多かったようです。

http://www.crc-japan.net/contents/guidance/pdf_data/h15research.pdf
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1946年の「東京済生会病院 『捨子台』」とあるのは、
終戦直後捨て子が多く、特に産院での捨て子が増えていたため、
「東京、芝の済生会病院では70余人を数え、『やむをえない人はここに捨てよ』と貼り
紙した『捨子台』が作られた(p.136)」という記事である。
========

孤児院もこの資料に言及があります。
敗戦直後に増設されています。
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児童福祉の視点からこの時期をとらえると、混乱と生活困窮のなかでの
ベビーブームの到来による乳幼児の増加と戦災孤児や浮浪児の急増があげられる。

孤児や浮浪児などを保護する緊急対策として、一時保護所、
児童保護相談所、児童鑑別所などが急速に設置され始める。
「児童保護施設、なかでも育児院や孤児院などが増設され、
その数は敗戦直前の89カ所から1946年には171カ所、
1947年には306カ所まで増加した」
========

それから子どもの身売りが多かったともあります。
これがとりわけ問題だったみたいです。
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さらに、それ以上に目につく事件記事は子どもの「身売り」である。
資料1にはその多くを掲載できなかったが、栗栖(1974)によれば
1949〜51年にかけて「児童の人身売買が激増したことも報じられている(p.123)」

そして、驚くべきことに1950年の国立世論調査所によれば、
世の中はこの身売りを必ずしも否定していないことがうかがわれる。
「親が前借して子どもを年季奉公に出す」ことに「構わない」9%、
「家が困ったり、親の借金を返すためなら仕方がない」20%、
「子どもが進んで行く場合や子どもの幸せになるなら構わない」51%であった
(下川,2002:p.162-3)。
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Posted by たんぽぽ at 2014年10月20日 19:48
>かつて「金の卵」と呼ばれた人たちが中卒で地方から都会に集団就職してきましたね

そういえば「金の卵」なんてことばもありましたね。
わたしも聞いたことあります。

1965年で高校進学率は7割ですね。
3割ほどが中卒だったことになります。
となれば企業も中卒を採らないわけにいかないでしょうね。
でないと採用する人がいなくなってしまいます。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3927.html

>今、中卒者の就職先なんてゼロではないにせよ、本当に少数じゃないですか?

高校どころか大学に入っても就職が苦しいくらいですよね。
こんな就職難の時代において、大学に行かなければいいなんて
どれだけ無責任なもの言いなのかと思います。
Posted by たんぽぽ at 2014年10月20日 19:51
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