2015年12月26日

toujyouka016.jpg 自民党・選択別姓反対小史

12月17日の朝日新聞に、自民党による
「選択的夫婦別姓反対小史」とでも呼べそうな記事があります。

「自民、別姓導入後ろ向き」(1/2)
「自民、別姓導入後ろ向き」(2/2)

この記事は12月20日エントリでご紹介の朝日の記事で、
会員登録しないと読めない続きの部分です。

ふだん話題にならないようなことも出ていて、わたしは興味を惹きました。
いろいろ思い出すこともあります。これを見てみたいと思います。

 
記事の書き始めは
「姓」のあり方について最高裁から議論をゆだねられた国会だが、
自民党は積極的でない。
となっています。
自民党がいかに反対してきたかを紹介するのが目的の記事なのでしょう。


1996年に法制審議会の答申があったことから始まって、
2000年代の前半、自民党の推進派が活発だったことに触れられています。

02年に野田聖子・前総務会長らが中心になって
党内に「例外的に夫婦の別姓を実現させる会」を設立。
反対派議員が03年の衆院選で数多く落選したこともあり、
04年に家庭裁判所が許可した場合だけに認める
「例外的夫婦別姓」案を作った。
それでも「別姓にしなくても女性の社会進出は進んでいる」
などの反対で、案は日の目を見なかった。」

最初の「例外制法案」は、別姓を例外とすることで
反対派(非共存派)議員の理解を得ようとしたものです。
別姓から同姓への振り替えはできるけれど
逆はできないという制限がありました。

「例外制法案」

この程度で納得する非共存派議員でないことはもちろんです。
「実質的に選択制と変わらない」と言って、
結局はいつものように反対を続けるだけでした。


家庭裁判所の認可制案は、2002年の夏からすでに出ていました。
夫婦別姓を選択する場合は、家庭裁判所の認可が必要というものです。
西川京子という非共存派議員が「家裁の認可があれば
別姓は認められる」という趣旨のことを言ったので、
それに沿って推進派議員が準備したものです。

「家裁認可制法案(1)」

わたしの推測ですが、西川京子は口を滑らせたのだと思います。
家裁認可で別姓を選択してもだいじょうぶということに
なんら根拠はないですし、こんな条件でも付ければ、
推進派議員もあきらめるとでも思ったのかもしれないです。

推進派議員が家裁認可案を打ち出したあとは、
西川京子は表立った反対こそしなくなりましたが、
さりとて積極的に家裁認可案を支持したのでもなかったです。

記事には出ていないですが、民法改正運動から
婚外子差別の撤廃を切り離したのもこのときです。
婚外子の相続差別撤廃がセットになっているから賛成できない、
という趣旨のことを言った非共存派議員がいたので、
その議員に配慮してとのことでした。

「婚外子差別撤廃の切り捨て(1)」


2002-03年ごろというのは、わたしがむかし関わったネットの
選択的夫婦別姓の市民団体の活動がもっとも活発なときでした。
彼女たちは自民党の推進派の方針を全面的に支持でした。
「自民党の推進派議員にメールでお願いしなさい」と
叱咤しつつ、推進派議員の打ち出した「例外制」や
「家裁認可制」法案に批判的な意見を抑えつけていきました。

抑えつけるだけでは、おとなしくならない人たちは、
遠慮なく「排除」していきました。
排除される前に嫌になって去っていった人も少なからずいました。
とんだ粛清体質をあらわにしていたということです。

わたしも彼女たち市民団体から排除されたひとりです。
「非共存派議員たちは、なにがあっても納得することはない」という
彼女たちにとっての最大のタブーを公言していたのですから、
それはそれで無理もないとは言えます。

わたしは婚外子の相続差別問題を切り離しても、
「例外制」や「家裁認可制」といった条件付きでも、
非共存派議員たちは納得しないだろうと思っていました。
市民団体の人たちは「家裁認可制」について
かなり議論していましたが、そんなことに時間を費やすのも
無駄だとわたしは思っていたくらいです。


2004年になると自民党内の推進派が、少しだけ活発になりました。
2003年11月の衆院選で非共存派議員がたくさん落選したからです。
数が減ったとはいえ、民法改正法案の提出を
握りつぶすにはじゅうぶんだったので、
推進派はまたしてもあっさり断念することになったのでした。

「2004年の法務部会(1)」

「別姓にしなくても女性の社会進出は進んでいる」
なんて意見があったのは、わたしも寡聞にして初耳でした。
日本で「女性の社会進出は進んでいる」なんて、
何をか言わんやだと思います。

当時としても欧米の民主主義国と比べたら
日本の「女性の社会進出」はずっと遅れていました。
もう5年もすると、ジェンダーギャップ指数で
先進国最下位レベルの常連となるなど、「女性の社会進出」の
立ち遅れは、さらに目立つようになってきます。


このあとは記事で触れられなくなりますが、
2005年になっても、選択的夫婦別姓の市民団体は
自民党と公明党だけを相手に活動していました。
「自民と公明が政権を取っている以上、両党にお願いしないと
実現はありえない」というのが彼女たちの「理屈」でした。

郵政選挙で自民党が大勝すると、そんな別姓運動も逼塞します。
2006-07年の第一次安倍政権は、ほぼ絶望的な状況でした。
安倍晋三が退陣して、自民党が弱体化すると、
民主党への政権交代に期待をつなぐことになります。


野党時代の自民党は、選択的夫婦別姓に関して正直になりました。
民主党との差をはっきりさせるためにも、
党議拘束をかけて選択的夫婦別姓に反対していました。

「えらぼーと(2)」

野党だった10年の参院選の党公約には、「民主党の『夫婦別姓制度』には
断固反対します」と明記。党の空気は元に戻った。

民主党から政権を取り戻すために必死だったのでしょう。
もともとの支持基盤に歩み寄ったのだと思います。
このころの自民党やその関係者は集会や勉強会もさかんに開き、
新しく会を立ち上げたりもしていました。

「[夫婦別姓問題] 夫婦別姓に反対する国民大会 (概要・運動方針)」
「保守の新しい潮流を創るのは、再生する人間力。
清和政策研究会フォーラム」

「5100人が夫婦別姓反対国民大会に集結!」
「最高裁「夫婦別姓」否定判決の原因?
安倍首相が「夫婦別姓は家族の解体、共産主義のドグマ」と時代錯誤の恫喝発言」



2010年は衆院調査局が夫婦別姓の資料を作ったときでした。
このとき同性強制の国は実質的に日本だけ
ということが、あらためてはっきりしたのでした。

「夫婦別姓・国連の勧告の記事(2)」

日本は国際的に「ガラパゴス」であることが
あからさまになったのにもかかわらず、
それに逆行して「ガラパゴス」を堅持する言動を、
自民党は繰り広げていたということです。

posted by たんぽぽ at 15:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 民法改正一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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