選択的夫婦別姓についての記事があります。
実現に向けての戦略について述べた、推進派向けの記事で、
あまりほかでは見ない内容なので、ご紹介したいと思います。
「「夫婦別姓議論」に時間をかける余裕はない」
「「夫婦別姓議論」に時間をかける余裕はない」というのは、
「世代交代」という時間による解決では、
時間がかかりすぎるということです。
記事の後半で2020年までに女性管理職の割合を
30%にするという、2003年の小泉政権時代に定めた目標を、
安倍政権が断念したことを例として出しています。
「改革のスピード」という点では、政府が今月3日、
小泉政権時代の2003年に設定した「社会のあらゆる分野で20年までに、
指導的地位のうち女性が占める割合を30%程度」にするという目標を
「事実上断念」したニュースが思い起こされます。
「30%」を本気で実現しようと思うなら、新卒一括採用と年功序列、
終身雇用をやめて、社会の全体、あるいは世界中からの登用でもいいので、
「本省課長級の公募」をすればいいのです。
本気で公募すれば、各省庁の課長級の職務に耐えうる
女性の人材を採用する事はできるでしょう。
本気で目標を達成したかったら、既得権益や差別意識に抵抗して
やるべきことを断行する必要があったということです。
それをあまり熱心にやらずに流してきたので、
結局できなくなって目標の撤回にいたったということです。
ようは既得権益や差別意識から抜け出せず、
これらがもたらす「ぬるま湯」に浸っているほうが楽なので、
その「楽な道」を過去12年のあいだ選び続けてきた、ということです。
「楽な道」を選び続けた結果、どんどん状況が悪化している
もっとわかりやすいものは、少子高齢化があるでしょう。
これこそ本気で必要なことをやらず、既得権益と差別意識がもたらす
「ぬるま湯」に浸かり続けたので、無策や愚策を繰り返して、
今日の出生率の低下となったのでした。
「顧みられない家族政策」
既得権益や差別意識のしがらみから抜け出す強力な手段として、
記事では「世代交代」があることを示しています。
アメリカ合衆国で同性結婚が認められたことを、
世代交代による解決の例として挙げているのでした。
例えばアメリカの場合ですと「同性婚」の問題が
賛否両論を招いていた時期がありました。
ですが2014〜15年に、この問題は各州の判断、
そして最高裁判断を経てほぼ解決に向かいました。
それは、オバマという中道リベラル政権の時代がそうさせたというよりも、
一歳ごとに400万人前後という巨大な若年層が
毎年有権者として加わり、それが時代を動かしたのだと言えます。
日本の場合、世代交代による解決というのは悲観的になります。
まさしく少子高齢化ゆえに、高齢層の人口は今後も多いまま、
そして若年層の人口はむしろ減る傾向にあるからです。
なかなか世代交代が進まない人口構成になっているのであり、
世代交代が解決してくれるのを待っていたら、
時間がかかりすぎて「手遅れ」になりかねないでしょう。
これと比較して日本は、いくら18歳選挙権が実現するにしても、
巨大な高齢層の「塊」がある一方で、若年層はどんどん細っていく
人口ピラミッドの中では、世代交代による
価値観の変化は非常にスローになってしまいます。
「手遅れ」にしないためには、世代交代を待たずに改革を断行するよりないです。
選択的夫婦別姓を含め、既得権益や差別意識の強い分野では、
どこかで国論を割ってもいいというくらいの覚悟で、ことになるわけです。
論争をしっかりやらないと、時代は前へ進まない
ところが、選択的夫婦別姓の推進派の側は、
この「国論を割ってもいい覚悟」が弱い人たちが多いと思います。
民主党はまさにその代表格で、衆議院でこれまでにない
多数の議席を得ておきながら、世論の反発を恐れて、
選択的夫婦別姓法案の提出を投げてしまったのでした。
「口だけリベラル」「口だけフェミニスト」が多いのだと思います。
そういう「口だけ」の人には、とうてい期待できない強力な実行力が、
選択的夫婦別姓の実現には必要ということです。
より具体的には、もっと積極的に論争を挑めと、記事にはあります。
既得権益と差別意識を背景にした「敵」は
それだけ強大なので、かなり覚悟して闘争を仕掛けないと、
改革を勝ち取ることができないということです。
どうして夫婦別姓が必要なのか。
それは「嫁入りして家長の姓に合わせる」という価値観が
男尊女卑につながり、結果として家事や育児の共同分担が遅れ、
非婚少子化を招いているという深刻な問題に重なっている――。
だから改革が必要なのだと、少なくとも賛成派なら、そこまで真剣に考えて、
堂々と改革への論争を仕掛けるべきではないかと思います。
今回の合憲判決を一つの契機として、「同姓は不便だから」という
腰の引けた論争ではなく、男女の本質的な平等と、
家事・育児・家庭教育参加への共同参画を問う
「価値観論争」という正面からの問いかけをして、
改革のスピードアップを図るべきではないでしょうか。
さらに具体的には、手続きの負担なんて議論に終始するのではなく、
選択的夫婦別姓に反対することは差別と人権侵害であり、
将来の少子高齢化という国の存亡に関わることである、
ということを前面に出せということです。
夫婦別姓に関する議論は、「家族の絆」とか「子どもが可哀想(もしくはいじめられる」とか偏狭で差別的な発想を持った人をあぶり出しているっていう意味で、非常に意味があった。この発想こそがこの社会の闇。手続き上の面倒くささとかは、もはや二次的課題。
— saereal (@saereal) 2015, 12月 16
わたしがむかし関わったネットの選択的夫婦別姓の
市民団体の人たちは、まさに手続きの負担の議論に終始する
「腰の引けた議論」を展開していたのでした。
差別性や人権侵害性を前面に出すと、非共存派が嫌がって
かえって反発を強めるというのが、彼女たちの「理屈」でした。
ところが「腰の引けた議論」では、強く批判されないことで、
非共存派はつけあがることになりました。
実際、非共存派はまったく理解を示すことはなく、
選択的夫婦別姓が実現しないまま終わったのでした。
非共存派たちが選択的夫婦別姓に反対するのは、
「家族思想信仰」という宗教的徳目を守るための、
「異教徒」に対する「聖戦」と言えるものです。
それゆえそれだけ強大なのであり、そんな彼らに対して、
「腰の引けた議論」が通用するはずなかったとも言えるでしょう。
最近のマスコミの記事をいくつか見ていると
「各人の家族のありかたに関わる」という書きかたが散見されます。
選択的夫婦別姓に反対し、別姓との共存を拒絶することも、
「尊重されるべきカチカンのひとつ」であるかのようです。
問題は「別姓か同姓か」ではなく「共存か非共存か」です。
同姓の強制ならびに別姓との共存拒絶は、
「否定されるべき差別であり人権侵害である」ことを、
はっきりさせたほうがいいと、わたしは思います。
謝辞:
12月20日エントリのコメント欄で、『ニューズウィーク』の記事を
教えてくださったうがんざきさま、ありがとうございます。
夫婦別姓が、知的女性の洒落た生き方なのか、人権問題なのかというところで、人権問題というダサい戦いを切り捨てた。
憲法が護っているのは、洒落た生き方ではなく、基本的人権です。
たんぽぽさんたちの今後の健闘を祈ります。
このエントリにコメントありがとうございます。
>何より自分たちの中にある差別する側であり続けたいという意識を捨てられないことが
わたしがむかし関わった、ネットの選択的夫婦別姓の
市民団体の人たちは、「自分たちも自民党のお歴々と
同じような『仲間』なんですよ」と、思われようとしていましたね。
そうしたら自民党のお歴々は、自分たちを受け入れて、
選択的夫婦別姓を認めてくれるに違いない、という考えでした。
「仲間」と見られるために、自民党のお歴々が差別していることは、
同じように自分たちも差別してみせたりもしましたね。
婚外子差別の撤廃を切り捨てたのはその最たるですが、
同性愛や性同一性障害に理解のない発言も散見されました。
>人権問題というダサい戦いを切り捨てた。
本質的に人権意識が欠如していたのでしょうね。
(代表からして自己責任論者でしたし。)
そういう人たちだから、わたしを含めて都合の悪い人を
排除することに、遠慮がなかったのもあるのでしょう。
>たんぽぽさんたちの今後の健闘を祈ります
ありがとうございます。
非力ですが自分なりにがんばっていきたいと思います。