また下がって最低記録を更新したことに触れました。
「報道の自由度・また低下」
国連「表現の自由」の特別報告者のデイビッド・ケイ氏が
詳しいコメントをしていて以下の記事で見ることができます。
「国連「表現の自由」特別報告者「懸念は深まった」記者クラブ廃止など提言【発言詳報】」
この中に、表現の自由のためにヘイトスピーチを規制する
必要があると主張していることが、特徴的だと思います。
■「ヘイトスピーチ対策、反差別法の制定を」
――国会でヘイトスピーチ対策法案を審議している。
罰則のない理念法だが、ヘイトスピーチを規制する法律は必要か。
国会の法務委員会メンバーと会談しました。市民団体の懸念も聞きました。
ますますヘイトスピーチが増えていることが問題になっています。
在日コリアンへのヘイトスピーチが高まっています。
まず反人種差別法を持つべきです。
ヘイトスピーチ以前に人種差別への法律が必要です。
雇用、住居など、人種だけでなく、とにかく差別は
罰せられると法で制定するべきです。
国会の審議では、ヘイトスピーチに価値あるアプローチをしていると思いたい。
差別禁止のための教育を導入する必要があります。
政府職員がヘイトスピーチの問題を声を大にして教育していくべきです。
ヘイトスピーチ規制法は、逆利用されて
被差別対象に不利益になる可能性があります。
まずは慎重に反差別法を制定し、そのなかにヘイトスピーチ対策も盛り込むが、
表現の自由を制約するものでないとする必要があります。
これはひとつはリテラシーの低い情報の氾濫を防ぐ
ということがあると思います。
『在日特権の虚構』といった本が示すように、
ヘイトスピーチや歴史修正主義は、根拠のないデマや
「とんでも」レベルの言説や、単に人格を傷つけるだけの
攻撃的な暴言であることがほとんどです。
一般に根拠がとぼしい主張をする人たちは、
内容に説得力がないゆえに「質より量」で訴えようとします。
加えて「差別する人」は一般に「社会的強者」なので、
発言が抑圧されることが少ないため、ものもうしやすいです。
それゆえヘイトスピーチや歴史修正主義的な言説は
「氾濫しやすい」ことになります。
根拠のとぼしいリテラシーの低い情報が氾濫すると、
信頼できる適切な情報へのアクセスがそれだけ難しくなります。
それは適切な情報にアクセスしたい人の「知る権利」を損なうし、
適切な情報を流すかたの「表現の自由」を損なうことになります。
「「情報の封鎖」と「情報の氾濫」」
もうひとつはより重要かつ、被差別マイノリティが対象であるときに
顕著なことですが、「沈黙効果」があるでしょう。
「ヘイト・スピーチの憲法論(6)」
「ヘイトスピーチの憲法的研究 ヘイトスピーチの規制可能性について」
「ヘイトスピーチとマイノリティー沈黙効果 歴史的背景から見えてくるもの」
被差別マイノリティは一般に「社会的弱者」です。
彼らが「社会的強者」から攻撃的な発言を浴びせられれば、
それだけで恐ろしいことでまともに反論する勇気が持てないし、
反論したら実際に危害を加えられる恐れもあります。
ヘイトスピーチや歴史修正主義は一般に根拠がとぼしいです。
「とんでも」な意見を見ても放置するのがよいと言われるように、
まともに反論することは無駄なことが多いです。
それで反論する気が失せることにもなります。
かくして被差別マイノリティは「反論すると怖いことになる」とか
「反論しても徒労に終わる」と思うことになり、
みずから発言をしなくなる「沈黙効果」が起きることになります。
これはとりもなおさず被差別マイノリティの
「表現の自由」が侵害されていることになります。
差別主義者や反反差別の人たちの中には、
「ヘイトスピーチや歴史修正主義も表現の自由で
認めるべきだ」と主張することがあります。
こうした主張こそ、かえって表現の自由を損なうことになるので
認められないということです。
差別主義者や歴史修正主義者の中には、
「表現の自由」や「カチカンの多様性」を楯に取って
自分たちの主張を擁護しようとすることもあります。
「反知性主義者の多様性」
根拠があればそれを先に示すでしょうし、
根拠が示せないから「表現の自由」とか
「カチカンの多様性」といった、抽象的なお題目を
並べることになるということだと思います。
「ならず者の最後のよりどころ」としての「表現の自由」です。
上述の引用にある「ヘイトスピーチ規制法は、
逆利用されて被差別対象に不利益になる可能性があります」というのは、
被差別マイノリティの発言が差別主義者の「表現の自由」を
侵害するとみなされて、不利に扱われる可能性のことが
あるのではないかと思います。
ヘイトスピーチ規制の法制化に対する懸念として
国家権力による表現の弾圧に結びつくのでは?ということがあります。
ところが現代社会において、自由競争に任せて
原則アナーキーという「小さな政府」主義的な考えでは、
よろずにうまくいかないことと思います。
現実にヘイトスピーチによって権利侵害される
被差別マイノリティがいて、彼らの表現の自由も損なわれる以上、
国家が彼らの権利を保障する必要があることになります。
市民全般の権利保障のために国家を機能させられる程度に
21世紀の民主社会は成熟しているとも言えます。
「慎重に反差別法を制定し、そのなかにヘイトスピーチ対策も
盛り込むが、表現の自由を制約するものでないとする必要があ」る
というのは、国家による表現の弾圧とならず、
市民全般の権利保障のために機能するよう、
じゅうぶん配慮するということでもあると思います。