8月23日の東京新聞・こちら特報部で、
NHKの番組に出た貧困高校生バッシングと、
片山さつきの便乗について大きく取り上げられています。
「「貧困高校生」報道 炎上の以上
見た目普通...でも進学や部活遠征断念 「相対的貧困」理解されず」
東京新聞、貧困女子高生問題をきちんと報じてますね。かなり段数を取った大きな扱いで。重要な点は全て押さえてあって、すぐれた記事だと感じました。こういう仕事、大切ですよね。 pic.twitter.com/AKm0n52Cgs
— 松井計 (@matsuikei) 2016年8月23日
はじめにNHKの番組についての内容に触れ、
ネットでのバッシングと片山さつきの便乗について
一通りあらましを触れています。
そのあと各方面の識者に取材をして、
まともな意見を集めたとてもよい記事だと思います。
NHKは番組の内容に問題ないとしています。
バッシングによって変に揺らいではいないようで、それはよかったです。
NHK公表局は「放送内容に問題はないと考えている」と書面で回答した。
配慮に欠けるものがNHKにあったという指摘があります。
日本社会はとりわけ貧困者に対して攻撃的なので、
貧困家庭を取材するときは、バッシングのもとになりそうなものを
映らないようにする配慮が必要になるのですが、
それがふじゅうぶんだったということです。
元日本テレビディレクターの水島宏明・上智大教授(メディア論)は
「NHKの報道に配慮に欠けた点があったとみる。
制作者側は、視聴者から余計な批判を受けないよう、
豪華そうに見えるものが映らないようにすべきだった。
このあたりはこちらの記事で詳しく出ています。
本来はこんなことをするいわれはないのですが、
現実問題として貧困バッシングに狂奔する
こころない人がたくさんいる以上、
理不尽であっても配慮せざるをえないことになります。
「”貧困女子高生” 炎上の背景に報道側の配慮不足とネットの悪ノリ」
次に貧困のスティグマ性と、貧困を語ることの勇気です。
それだからこそ、発言した人をバッシングにさらすことで、
今後貧困者が同様の発言に対して口をつぐむことの
ないようにする必要があることになります。
山野良一・名寄私立大教授(社会保育論)は、
公の場で貧困を語る高校生をNHKが紹介した点について
「貧困は、今の日本ではとても恥ずかしいこととされている。
自分自身の口で、子ども同士の間に不公平があると
述べたのはとても勇気がいること」と評価。
さらに相対的貧困に対する無理解についての指摘があります。
貧困というと、住む家がないホームレスとか、
開発途上国の飢餓状態を連想して、
「相対的貧困だから大したことない」と軽視する人たちは、
まだまだたくさんいるのではないかと思います。
戸室健作・山形大准教授(社会政策論)は
「そもそも相対的貧困に対する認識が間違っている」と嘆く。
「日本のような先進国では、途上国と異なり、
最低水準の生活が保障され、教育や職業選択の
自由などの恩恵を受けられる。
これらは当然、貧困層にも保障されなければならないが、
低所得のために十分享受できないのが相対的貧困だ」と説く。
貧しいゆえに進学ができないと、就職の自由度が狭くなります。
一般に高学歴が要求される高収入の専門職に就くことが極めて難しくなり、
学歴を要求しない低収入の職にしか就けなくなるからです。
そうした人が子どもを持っても、経済力がないので
自分の子どもを上の学校に進学させることができず、
子どもも低収入な職種にしか就けなくなります。
こうした貧困が再生産され、格差が固定化・拡大化することになります。
格差が広がっていくと、将来の経済成長の
停滞をもたらすというという、OECDの試算もあります。
これはひとつには貧困層が増えることによって、
税収が下がり福祉予算が増えることがあります。
また国民の教育水準が下がることで、知的活動や生産的活動に
携われる人が少なくなり、社会全体の技術力の
低下を招いて経済発展が阻害されることもあります。
「格差是正のための対策」
「格差が経済成長を阻害」
「「OECD「トリクルダウンは起こらなかったし、所得格差は経済成長を損なう」
という衝撃の報告について」」
相対的貧困率が高いことは、「たいしたことない」なんてことは
ぜんぜんなく、とても深刻なことだと言わざるをえないです。
貧困バッシングは、貧困自己責任論が背景にあると思います。
なぜ貧困を自己責任と考える人が多いのか、
それは日本は福祉が貧しい不公平な国にもかかわらず
北ヨーロッパ並みの公平な国と、根拠もなく思い込んでいる人が
多いから、ということを挙げておきます。
「社会的不平等・現実と認識」
「生まれが「モノ」をいう社会」
しかし、それを相対的貧困の観点から語るのは悪手だと思いますよ。
進学できないことを相対的貧困の観点から問題にするというのは
「ほかの人が進学できているのに、この子は経済的な問題で進学できない、これは問題である。」
ということになります。裏を返してしまえば、他の人が進学できないのであれば、自分が進学できなくても
問題ではないということになってしまいます。
私大の医学部に進学できない人を相対的貧困という人はほとんどいません。私大の医学部は一部の金持ちじゃないと進学できないからです。
これからの日本は、低所得層の人がどんどん増えることが予想されます。となると、経済力の問題で進学できない人が少数派でなくなる恐れがありあす。なので、進学できないことを相対的貧困の問題としてとらえると
「あなた以外にも、経済的な理由で進学できない人はたくさんいる。むしろ進学できる人間の方が少数だ。だから、あなたが進学できなくても、それを支援する必要はない。」
ということになりかねないと思います。
相対的貧困の定義は
「所得の中央値の半分以下の年収であること」
だったと思います。なので、世の中が全体的に貧しくなって、所得の中央値の家庭の子が進学できない状態になれば、進学できない人が相対的貧困層とはいえなくなってしまいます。
進学するための学力はあるし意欲もある。だけど、経済的な理由で進学できない、という子がいたら、進学すための援助は絶対にしなければいけないと思います。他人の家庭の経済力次第で、支援するしないを変えてはいけないと思います。
>しかし、それを相対的貧困の観点から語るのは悪手だと思いますよ。
それならあなたはどうやってこの問題を語りますか?
具体的に議論をご提示ください。
進学できるだけの意欲や学力がある。でも、家の経済状況の問題で進学できない。という子がいたらそれだけで助けるべきです。その子が相対的貧困層に属するかなんていうのは関係無い話です。
年収200万円以下の家庭であれば、家庭のお金だけで進学することはかなり困難でしょう。だから、そういう家庭の子に対しては進学の際に援助が必要だと思います。年収200万円が相対的に見て貧困かどうかなんて関係ありません。所得の中央値が下がって、400万円を切ってしまったら、年収200万は相対的貧困ではなくなってしまいます。そしてそれはあり得ない話ではないのです。
>という子がいたらそれだけで助けるべきです。
>その子が相対的貧困層に属するかなんていうのは関係無い話です
関係あるでしょう、
家の経済状況がどの程度問題になるかを示すのが、
相対的貧困なのですから。
>家の経済状況がどの程度問題になるかを示すのが、
>相対的貧困なのですから。
進学させる余裕があるかを判断する指標としては、相対的貧困というのは役に立たないですよ。国民全般が貧しい国では、所得の中央値はかなり低めに出てしまいます。なので、所得の中央値の半分以下の収入かどうかで、進学する余裕があるか否かを判断するのは無理がありますよ。
現に戦前の日本では、一部の金持ちじゃないと大学進学は難しかったわけです。相対的貧困層じゃない家庭でも、せいぜい中学校まで、ということがほとんどでした。一部の金持ち以外はかなり貧しい状態だったし、兄弟の数が多かったので、そうなるのも当たり前の話です。
現在の日本でも、所得の中央値は年々下がり続けています。国立大学の学費も、かつてに比べると相当値上がりしました。相対的に貧困ではない家庭の子が進学できない世の中にどんどん近づいています。
件の番組の貧困女子高生も、結局入学金50万円が工面できないため、進学をあきらめたわけですから、まとまった金額を用意できなかったということに変わりはありません。
そして、一定以上のまとまった金額を用意できるか、ということを判断する時に、相対的貧困というのははっきり言ってあまり役に立たない指標です。
toeflという英語のテストがあります。カンボジアという国では国全体で40人程度しか受験者がいません。何故かというと、カンボジアの国民はとても貧しい人ばかりなので、一部の人でなければ受験料を払えないのです。(2万円程)なにせ、平均月収100ドルの国です。大学進学も、一部の金持ちじゃないと難しいです。カンボジアでは、相対的貧困でなくても進学できないのが当たり前になっています。
日本の国立大学の学費は年間53万円です。この学費を払えるかどうかって、その家庭が相対的に貧困かどうかで判断できるものではないですよ。所得の中央値の半分未満なら払えない、そうでないなら払えるという話ではありません。一定の金額を払えるかどうかの判断材料になるのは、要求されている金額と、各人の所得金額です。その所得が中央値からどれだけ低いかなんてのは判断材料として役に立ちません。
確かに、今までの日本は、普通の家庭であれば進学できるという国でした。でも、将来的にもその状態を維持できるわけではありません。10年、20年したら、普通の家庭でも援助なしには進学できないのが当たり前になっている可能性もあります。なにせ、一家には必ず正社員として働いている親がいる、という昭和時代の家族形態はもう崩れているわけですから。
>相対的貧困というのは役に立たないですよ
>一定以上のまとまった金額を用意できるか、ということを判断する時に、
>相対的貧困というのははっきり言ってあまり役に立たない指標です
「相対的貧困」が使えないというのなら、
貧困の存在やその問題を理解してもらうには、
どうしたいいとお考えですか?
それをお尋ねしています。
>進学できるだけの意欲や学力がある。でも、家の経済状況の問題で進学できない。
>という子がいたらそれだけで助けるべきです
このような抽象的なことしか言わないのなら、
反対されないのは当たり前だと思います。
肝心なのは、貧困であることを具体的にどうやって判断するか、
その具体的判断によって貧困対策が必要なことを、
どうやって社会に理解してもらうかです。