現行の同姓強制を違憲とし、ただひとり国の賠償責任まで
主張した山浦善樹氏のインタビュー記事があります。
これを見てみたいと思います。
「夫婦別姓「憲法の精神は寛容」 同姓「合憲」判決で反対意見の元判事」
(はてなブックマーク)
「憲法の精神は寛容のはず。
どうすればみんなが幸せになるかを書いている。
名字のことは夫婦で決めればいい。結論はおのずと出ました」。
十六日で判決から一年となるのを前に取材に応じ、
判断に込めた思いをそう語った。
山浦さんは判決で「別姓禁止は結婚の自由を制約し、違憲だ」
との少数意見に賛同。個人の意見として
「国会が正当な理由なく立法措置を怠ってきた」と付記し、
原告らが受けた精神的苦痛に国家賠償請求を認めるべきだとした。
退官後は弁護士として活動している。
このような考えが自然に出てくるのは、すばらしいです。
こうした考えが最高裁判所においても、おそらく世論一般においても、
多数とならないのがいかんともしがたいです。
自由な社会においては、どうやって幸せになるかは、
各人が決めることであり、国家の役目は個人が
どんな選択をしてもそれが実現できるよう、
インフラを整えることだと言えます。
そう考えれば、そのインフラの大元である
「憲法の精神は寛容」であり、「どうすればみんなが
幸せになるかを書いている」ことになるでしょう。
憲法公布と同じ年に、長野県の山あいの町で生まれた。
ボーボワールの「第二の性」を読んで衝撃を受けた大学時代。
弁護士となってからは、離婚やドメスティックバイオレンスに悩む
女性を目の当たりにした。
背後に見えたのは社会に染みついた「家」の意識、男性中心主義…。
その経験から、夫婦別姓訴訟を審理することに巡り合わせを感じたという。
女性の権利に理解のあるかたは、学生のころから
このような経験をしているのだと、あらためて思うところです。
弁護士になってからも、女性の権利に関する
案件にかかわることが多かったみたいです。
自分が最高裁の裁判官を務めている最中に、
夫婦別姓訴訟が大法廷回付されたのは、運命を感じたかもしれないです。
結果ははなはだ不本意なものとなってしまいましたが。
審理中、頭に浮かんだのは婚姻の自由を歌った
少年時代の流行歌「二十四条知ってるかい」だった。
「何てったってお父さん 僕はあの娘が好きなんだ」
「結婚てのは両性の合意によって決まるのさ」(歌詞より)。
「親の世代とは違う。自分で好きな人を選んで結婚できる時代なんだ」と感じた。
しかし、あれから半世紀たっても我慢を強いられる女性たちがいる。
大法廷で夫婦別姓の実現を訴える原告の女性たち。
同じ思いで涙している人がどれだけいるだろうと胸が痛んだ。
1950-60年ごろというのは、家族や婚姻に関する自由を、
強く実感した時代だったのだろうと思います。
自民党の憲法草案の家族に関することを解説した、
4月9日の朝日新聞の特集記事では、
55年前に結婚したかたの体験が出てきます。
親に猛烈に結婚を反対されるのですが、
憲法24条の存在が励みになったのでした。
「自民改憲草案・両性の合意」
「(憲法を考える)自民改憲草案・家族:上 個人より「家族」、消えた2文字」
心が折れそうになっていた渋谷さんを後押ししたのは、夫の一言だ。
「憲法24条を読んでごらん。
僕たちの結婚は、憲法で保障されているんだ。
両親は必ず説得するから心配しないで」
敗戦までは、イエ制度が厳然と存在し、
結婚はイエのためであり、親や身内が結婚相手を
決めるのが当然だったのでした。
だれでも自分が好きな人を選んで結婚できるというのは、
それだけで驚異的なことだったのだろうと思います。
日中・太平洋戦争を経験した人たちにとって
この時代に、ずっと戦争のない状態が続いたのは、
それだけで驚異的なことだったのだろうと思います。
ほかにもここに「自由な結婚」という、
もうひとつの「抑圧からの解放」があったわけです。
この時代の人たちがだれでもこのような
家族や結婚に関する自由な意識を持てたかというと
かならずしもそうではないのだと思います。
前時代からのイエ制度的家族観、結婚観から
いつまでも抜け出せない人も少なくなかったと思います。
そして1950-60年ごろというのは、戦後民法で規定された
家族のありかたを金科玉条のように維持する
「家族思想信仰」が定着し始めた時代でもありました。
同姓強制を絶対視する思想は、すでに育まれていたわけです。
選択的夫婦別姓なんて認めて当然と思えるくらいの
自由な結婚観を持つためには、それ相応の本人の意識や
力量が必要ではあるということです。
山浦さんが大学卒業後に入った銀行を辞め、司法試験の勉強をしていた頃、
薬剤師として家計を支えてくれた妻成子(しげこ)さんは
今ボランティアとして子育て支援に奔走する。
その妻が会合の招待状に「山浦令夫人」と記されることにも
「付属品みたい」と違和感を覚えた。
このような表記に関する感覚は、夫婦別姓問題に関わっている
多くのかたが持っているものだろうと思います。
山浦善樹氏もそうだったということです。
一年前の判決の日。落胆する原告や弁護団に、
法壇から声を掛けたくなる気持ちを抑え、心の中でつぶやいた。
「闘いはまだ終わったわけじゃない。あなたたちは歴史の扉を開いた」。
若い世代に伝わりやすいように言葉を選んで書いた意見が、
多数派となる日が来ることを信じている。
原告の敗訴が決まった瞬間、どんな心境だったかと思います。
諸外国では選択的夫婦別姓なんてとっくに認められて、
日本だけが認められない国になってひさしい時代になって
ようやく「歴史の扉を開いた」状況では、
闘いが終わるのはどれだけ先になるのかと思うと、
気が遠くなってくるものがあります。
何度も読み返し号泣しました。
今だ家制度の亡霊に苦しむ人の為に。
「誰もが喜んで婚姻届を出せ、離婚の意思などないのに名字の為に離婚届けを出す事のない世の中に」
戦い続ける決意を改めてした言葉でした。
今でもくじけそうになったときはこの言葉を胸にまた立ち上がっています。
>「戦いは終わったわけではない。あなた方は新しい扉を開いた」
>何度も読み返し号泣しました。
>戦い続ける決意を改めてした言葉でした。
>今でもくじけそうになったときはこの言葉を胸にまた立ち上がっています。
はげみになったかたもいらっしゃったのですね。
たぶんそういうかたのほうが多そうですね。
このことばを述べた山浦善樹氏も、それを記事にした東京新聞も、
そのかいがあったと思います。
わたしは、山浦善樹氏の気持ちは理解しつつも、
あまり励まされなかったので、エントリに書いたような
雑感になったのでした。
(励みになったというかたには、もうしわけなかったかな?)