金子みすゞの『さみしい王女』という作品に共感すると言っています。
「「恋愛不要論」「対幻想論」の偽善」
作中に出てくる王女さまの「さみしい」が、
自分がもてなくて「さみしい」ことと重なるということです。
初めてこの詩を読んだ時、(例によって私の曲解だとしても、
この際 気にしないことにして)、 世の中にはやっぱり私と似たようなことを
考える人がいるのだと思い、 深い共感を覚えた。
どうやったらこんなはなはだしい曲解ができるのかと思います。
わたしには衝撃的なレベルです。
これは金子みすゞが浮かばれないです。
『さみしい王女』というのは、次のような作品です。
みずから主体的に行動できず、他人のためにしか行動できない、
あるいはみずから運命を切り開けず、他人に依存してしか
生きられないことへのさみしさをうたったものです。
「『さみしい王女』金子みすゞ作」
おもちゃのない子が
さみしけりゃ
おもちゃをやったらなおるでしょう。
母さんのない子が
かなしけりゃ
母さんをあげたらうれしいでしょう。
母さんはやさしく
かみをなで、
おもちゃは箱から
こぼれでて
それでわたしの
さみしいは、
何を貰うたらなおるでしょう。
つよい王子にすくわれて、
城へかえった、おひめさま。
城はむかしの城だけど、
ばらもかわらずさくけれど、
なぜかさみしいおひめさま、
きょうもお空をながめてた。
まほうつかいはこわいけど、
あのはてしないあお空を、
白くかがやくはねのべて、
はるかに遠く旅してた、
小鳥のころがなつかしい。
街の上には花がとび、
城にうたげはまだつづく。
それでもさみしいおひめさま、
ひとり日暮れの花園で、
真紅なばらは見も向かず、
お空ばかりをながめてた。
自分の生きかたを自分で決められず、他人のためにしか生きられないとか、
他人に依存してしか生きられないという境遇は、
女性であれば多かれ少なかれ意識することだと思います。
おとぎ話のお姫さまは、そのような非主体的な存在として
書かれることが多いのも、『お姫様とジェンダー』なんて本を
持ち出さなくても、ご存知のことだと思います。
王女の冒険は、自分で困難を克服することによって終結しない。
突然あらわれたつよい王子、自分ではない他者の存在によって、
自ら乗り越えるはずであった試練は断ち切られるのだ。
それは何の達成感ももたらさない。ただ空漠とした喪失感が残るばかりだ。
王女は何者にもなれず、どこにもいけない。
成長を遂げる機会を奪われ、けれども城の人たちは、
浮かれ騒ぐばかりで、その哀しみを共有する相手もいない。
深淵な非もてのサイトのかたは、王女が「さみしい」のは、
「愛情が満たされないからだ」などと考えています。
もう少し拡張して具体的に言うと、 「愛情が満たされていないという
孤独が常に胸中にわだかまっている限り、 趣味や娯楽の領域で
どんなに充実した活動ができたからといって決して
満たされはしない」ということである。
で、そこからの帰結として、 趣味や娯楽を心おきなく手放しで
楽しめるようになるためには、 まず、愛情が満たされていることが
その「必要条件」であると 納得(痛感)した訳である。
王女が「さみしい」のはむしろ「奪われている」からです。
なにかを「与えられない」からではないです。
(「さみしい王女」には、強い王子さまが迎えに来るのだから、
このかたの考える「愛情」は、満たされていると思います。)
「非もて」の「さみしい」は、恋人ができないゆえですが、
それは女性の気持ちが自分の思うようにならないからと言えます。
それは「他人のものが自分の思うようにならない」です。
「非もての精神・思考構造」
「さみしい王女」の「さみしい」は、「自分のものが自分の
思うようにならない」であり、「さみしい」の原因が
「非もて」とは対極的であるということです。
「非もて」の要求は、女性の主体性を奪うことで
成り立つとも言えるので、くだんの深淵なサイトの人は、
「さみしい王女」を作り出す原因と考えることもできます。
王女をさみしくする「加害者」なくらいなのに、
なにを被害者づらして「深い共感を覚え」ているのかと思います。
深淵なサイトの人は、解釈がおかしいという批判を
受けることは想定しているのか、「私の曲解だとしても、
この際 気にしないことにして」などと断わっています。
「気になる」どころか、ジェンダー差別に無自覚過ぎて、
とても看破できないレベルだと思います。
深淵なサイトの人は、子どものころから愛情を
たくさん注がれたというし(それをおとなになってから
恋愛対象に求めている)、その後も旧帝国大学で博士号を取り、
現在は国立大学の教員で、生活は安定しています。
「他人から与えられる」ことや「自分のために生きる」ことが
空気のように当たり前すぎる中高年男性にとって、
他人のためにしか生きられない女性の立場は、
理解を超越していることなのかもしれないです。
あるいは、深淵なサイトの人は、金子みすゞがなにを
訴えたかったかわかった上で、こんな得体の知れない
「解釈」をしているのでしょうか?
そうだとしたら、冒涜的レベルの悪質なトリミングだと
言ってもよいでしょう。
ご無沙汰しています。金子みすずの詩は、私の別の詩を『ダイバーシティ』で引用していますが、この「さみしい王女」の詩も素晴らしいですよね。一言でいえば「庇護されるべき者」として扱われるために「自由がない」ことのさみしさ。空を飛ぶ「小鳥」にたくした自由の素晴らしさとの対比。イプセンの「人形の家」と同テーマで、より短いけれど、同じぐらい雄弁です。書かれた時代を考えると、このテーマは金子みすずの感性の先見性を示すとともに、男女の伝統的分業支持という形で女性の社会的役割を家事育児に未だ閉じ込めようとしている日本社会への批判にもなるという意味で、優れた現代性ももっている。金子みすず、もっと世界的にしられるべきと思います。
ではまたいずれ。
こちらにコメントありがとうございます。
>金子みすずの詩は、私の別の詩を『ダイバーシティ』で引用していますが、
>この「さみしい王女」の詩も素晴らしいですよね
そうだったのですね。
金子みすゞの「さみしい王女」は、
女性の生きざまが凝縮されて表現されていると思います。
>一言でいえば「庇護されるべき者」として扱われるために
>「自由がない」ことのさみしさ
なぜ「庇護されるべきもの」として扱われることが
不幸なのかが理解できない人は、少なくないと思います。
金子みすゞの詩では、祝賀ムード一色のお城の人たちによって、
それが表現されていると思います。
>男女の伝統的分業支持という形で女性の社会的役割を
>家事育児に未だ閉じ込めようとしている
>日本社会への批判にもなるという意味で、優れた現代性ももっている。
現代性があって、かつ国際的な汎用性もありますね。
その意味でも、もっと鑑賞される作品だと言えそうです。
「現代性がある」のは、「歴史になっていない」ということであり、
その意味では、残念なことではありますが。