2017年02月25日

toujyouka016.jpg 恋愛の名のもとの搾取

2月23日エントリで触れた、深淵な非もてのサイトのかたは、
子ども時代に愛情いっぱいで育ったみたいです。
その愛情をおとなになった自分に注いで欲しくて、
それを恋愛相手に求めていると言っています。

たとえば、2月24日エントリでお話した金子みすゞの
『さみしい王女』の冒涜的レベルの曲解のくだりで、
自分にはそのような愛情が必要だと、長ながと書いています。

「「恋愛不要論」「対幻想論」の偽善」

 
というのも、 私は、この詩を初めて読む数年前に、
こういう詩こういう詩を 書いていたのだ
(金子みすずの詩を知る前なので、金子みすずに触発されて書いた訳ではない)。

自分の詩の解説をしてみせることほど興醒めなことはないが、
言わんとしたことを簡単に言うと、 「愛情が満たされていなければ、
いくらおもちゃやお菓子をいっぱい与えられたからといって、
それで満足することはできない」 つまり、もう少し拡張して具体的に言うと、
「愛情が満たされていないという孤独が常に胸中にわだかまっている限り、
趣味や娯楽の領域でどんなに充実した活動ができたからといって
決して 満たされはしない」ということである。

で、そこからの帰結として、 趣味や娯楽を心おきなく手放しで
楽しめるようになるためには、 まず、愛情が満たされていることが
その「必要条件」であると 納得(痛感)した訳である。

「こういう詩とこういう詩」でリンクしている先を見ると、
子どものころは幸せだったこと、年齢が上がるにつれて
不幸になっていったこと、自分の不幸を埋めるには
「愛情」が必要だということを綴っています。

十歳までは
しあわせだった
−−どすっぺ
十一歳がら
不幸の成長が始まった
小学五年の組み換えが
引き金になったのっさ
惚げるまでもね
愛情の不在が
確かに
何したって楽しめる訳ねっちゃ
んだがらごそ
その約一個の必要条件 獲得できるまでは
楽しむべどすっこどに意味なんてね

「愛情」とは具体的には、恋愛相手の女性から
注がれるものであることは、これまでのことから自明でしょう。

自分はいかにかかる愛情を受けられることが必要かを延々と書き、
愛情を注いでくれる相手がいないので、自分はひどく苦しんでいる、
という趣旨のことを書き連ねているということです。


深淵な非もてのサイトのかたは、恋愛の名のもとに
女性を搾取するタイプなのだと思います。
恋愛相手に母親を求めるマザコンタイプの男性が
ときどきいて問題になるみたいですが、
この「非もて」ははるかにそれ以上だと思います。

深淵な非もてのサイトのかたが、書いていることは、
「女性が自分にあれをしてくれなかった、
これをしてくれなかった」ということばかりです。
自分が女性から利益を受けることしか関心がないのでしょう。


恋愛するというのは、人を好きになるということです。
(当たり前のことだけど。)
だれかを好きになれば、その人をもっとよく知りたいとか、
その人のためになにかしてあげたい、という気持ちになると思います。

深淵な非もてのサイトを見ても、相手の女性についての
具体的なことはほとんど出てこないです。
相手の女性に対する関心がそれだけ薄いのでしょう。
この「非もて」は、相手の女性を好きになったのではなく、
好きなのはあくまで自分なのだろうと思います。


この「非もて」氏が、なぜ女性から無上の愛情を
注がれたいのかというと、「趣味や娯楽を心おきなく
手放しで楽しめるようになるため」だと言っています。
ようは「俺は自分のしたいことをするから、
お前は俺のために俺に愛情を注ぎ続けろ」です。

『男と女 変わる力学』(鹿嶋敬著、岩波新書)の序文に、
「男はつらいよ」のシリーズがジェンダー論的に見て
なぜ問題かということに触れています。

男は「家庭のぬくもり」という言葉に弱い。
それが漂ってくる映画はなんだろうと考えた時、
まず思い浮かぶのは『男はつらいよ』シリーズだ。

葛飾柴又で寅さんの帰りを待つ妹のさくら、
だんご屋を営むおいちゃん、そしておばちゃん------。
彼らこそ、この映画が発散する「ぬくもり」の源泉であり、
寅さんはその愛の充電を定期的に受けられるからこそ、
渡り鳥のように全国各地にはばたくことができる。

つまり寅さん映画は、男は勝手気ままに羽を伸ばしても、
故郷(家)に帰れば家族が温かく迎えてくれるという構図から成り立っている。

「男はつらいよ」がシリーズになって人気を博したことに、
「男は勝手気ままに羽を伸ばしても」
女から「愛の充電を定期的に受けられる」という、
ジェンダー役割の根の深さがあるということです。


深淵な非もてのサイトのかたが、恋愛の名のもとに
求めているものも、このような古典的で因襲的な
ジェンダー役割と同種になると思います。

深淵なサイトのかたは「ジェンダー役割反対」なんて息巻いて
ジェンダー平等に一定の理解のある態度を見せています。
それでも肝心のところへ来ると、自分の利益のために
因襲的なジェンダー役割を強く求めるという
「本性」を現わすのでしょう。


この「非もて」氏は差別的で自己中心的なことを、
まわりの女性たちは、「非もて」氏のふだんの言動から、
感じ取っていたのかもしれないです。
それでまわりの女性たちは、この「非もて」氏を避けていたのも
あるのではないかと、わたしは想像しています。

ましてやこの「非もて」氏は、子ども時代の幸せを
埋めてくれる愛情を注いでほしい、などと考えている、
なかば「お子さま」を引きずっている人です。

そんな精神的に「お子さま」な男性のすべてを
包み込めるような全能の愛情を求められれば、
通常の女性はかなり引くだろうと思います。
その前にそんな「全能の愛情」を与えられる
超人的な女性なんて、どこにもいないというものです。

posted by たんぽぽ at 15:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 家族・ジェンダー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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