2017年04月12日

toujyouka016.jpg 愛の深さとおたがいの信頼

深淵な非もてのサイトのかたは、『コンタクト』
(カール・セーガン作)の主人公、エリーの恋愛観が、
自分には心から共感できる、なんて言っています。

「「恋愛不要論」「対幻想論」の偽善 > 覚え書き(00/12/11)」

 
愛する者同士が赤児のように話し合えるわけが、
エリーにはわかってきた。
自分のなかの幼児的な部分をなにはばかることなく
露出できるような関係は、 ほかに存在しないのだ。

一歳の自分、五歳の自分、十二歳の自分、二十歳の自分が、
それぞれに、愛する者のなかにも相応する部分を
見出すことができれば、 自分のなかにあるそれらすべての
潜在的な幼児性を本当の意味で充足させることが できる。

長きにわたった、それら潜在意識下の分身の孤独は、
愛によって 癒されるのだ。
たぶん、愛の深さは、二人の関係のなかで、
各自の潜在意識下の分身がどれくらい解放されるかによって
計られるのではあるまいか。

カール セーガン(池央耿、高見浩訳)『コンタクト』(新潮文庫、 上巻、p251)


恐らく、若い頃からかなり充実した恋愛を
経験していたのではないかと思われる セーガンのような人が、
それとは対照的に若い頃の孤独との格闘の日々の中で
恋愛に過大な機能性を見積もる ようになった私が
心から共感できるような恋愛観を (小説の中とはいえ)
書いているというのは、実に感動的で心強いことである。


それは、深い恋愛関係になるためには、
おたがいに信頼できる関係になっている必要がある
ということを、言っているのだと思います。
その信頼とは具体的には、自分の子ども時代のように、
個人的事情にかなり立ち入ったことを話せるほど、
心を許せるということでしょう。

この信頼関係はとうぜん双方向です。
原文にも「二人の関係のなかで、各自の」とあります。
一方から他方への一方通行ではないということです。
関係が一方通行なら、このような信頼は築けないでしょう。

深淵な非もてのサイトのかたが考えているのは、
「子ども時代のように無条件で甘えられる全能の
愛情が欲しい」というのですから、一方通行の関係でしょう。
おたがいに信頼を築いている関係ではないです。

「恋愛の名のもとの搾取」
「精神的に「お子さま」な非もて」


なぜエリーの恋愛観は、おたがいの信頼のことであって、
非もて氏のような一方通行の搾取ではないと言えるのか?
そんなの当たり前すぎて説明不要なことですが、
それでは身もふたもないので、少しお話します。

エリーは母親の再婚相手が、結婚してから豹変したことで、
男性不信になっていることがあります。
男性が信頼できないがゆえに、男性と恋愛関係になることに、
エリーは用心深くなっているということです。

それにエリーは覚えているのだ、母親と交際していた頃の
ジョン・ストートンはとても自分に優しくしてくれたのに、
正式な継父となったとたん、見せかけの優しさの衣を脱ぎ捨てたことを。

男性なるものは、結婚すると同時に、それまでほとんど見せなかった
怪物のような本性を露わにするものらしい。
もともとロマンティックな性格の自分は、とてもそんな変身に
耐えられそうにない、とエリーは思うのだ。

母親が犯した過ちを、自分は決してくり返したくない。
もっと深い胸の底には、誰かを愛してしまうことを
恐れる気持ち、いずれだれかに奪われるか、
もしくは自分を捨て去るかもしれない
男性にのめりこむのを恐れる気持ちも働いていた。

(新潮文庫版『コンタクト 上』 249-250ページ)


エリーは何人かの男性との交際経験があるけれど、
いつも相手のことを信頼しきれなくて、
自分から関係を終わりにしています。
相手とじゅうぶんな信頼関係を築けなければ、
恋愛関係を続けられないということです。

彼女も人なみに何人かの男性と付き合ったことがある。
だれかに恋して、それを広言したことも何度かある。
が、結婚を真剣に考えたことは、ただの一度もなかった。
恋の終りを自覚するのはいつも彼女のほうで、
それとさとって悲観にくれる相手を慰めるために引用した
四行連詩をエリーは今でもぼんやりと覚えている。

(新潮文庫版『コンタクト 上』 249ページ)


ケン・ダヘーアは、エリーがそれまで知っている
男性と違って、おたがいに信頼関係を築くことができた、
だから恋愛感情を持てるということです。

その信頼関係があることはどうやってわかるか、
それは自分の子ども時代のような、私的に立ち入ったことまで
話せるくらい心を許せることだとエリーは考えた、
ということで、最初に引用した箇所に続きます。

非もて氏のような「甘ったれたがきんちょ」
いっしょにされたエリーが、とてもとても気の毒です。



上記引用のように、ダヘーアと知り合う前のエリーは、
男性に対して恋愛感情を持つことを恐れてさえいます。
深淵な非もてのサイトのかたのように「恋愛=必要条件」と
考えているのではないことはあきらかです。

とくに恋愛に関することになると、男性に対して、
それなりの警戒をする女性は珍しくないと思います。
エリーもこの点は「人並みの女性」ということでしょう。


エリーのような女性が現実に非もて氏の近くにいたら、
非もて氏は「エリーも恋愛に興味がないのではないか」
なんて思ったのではないかと思います。

エリーくらい男性不信なら、非もて氏のような男性には、
とても恋愛感情が持てず、そっけなく断わると思います。
そして深淵な非もてのサイトのかたは、
自分が接近しても相手の女性が自分に対して気がないと、
「この女性は恋愛に興味がない」と考える人だからです。

「性衝動の生物学的条件と非もて」


エリーは、ダヘーア以外の男性とおつきあいしたときは、
いつも自分から関係を終わりにしています。
これは非もて氏には考えられないことではないかと思います。

非もて氏は、十年間とか二十年間とか努力して
恋愛対象を獲得した人にはかけがえのなさが違うとか、
結婚式に男が乱入して花嫁を奪い去る映画は
とんでもないとか書いているからです。


ちなみにケン・ダヘーアは、仕事もできるし、
優しく思いやりがあって、いっしょに話をしても楽しく、
男性として、いや、人間としてとても魅力のあるかたです。

ケンは、なにかの試練に直面するとかえって優しい、
理解にあふれた一面を見せる。
たぶん、各種の政治的折衡において、
つとめて妥協点を見出そうとする傾向があるのは、
その任務自体のしからしめるところなのだろう。

が、ときどき、その柔軟な姿勢の下に、
コツンとした手応えを感じることもある。
いずれにしろエリーは、ケンが自分の生活と科学を
みごとに調和させている点や、彼が使えた
二代の大統領に対して、科学に対する支援を一貫して
働きかけてきた努力に敬意を払っていた。

二人はなるべく人目に立たないようにして、
<アーガス>本部内のエリーの居室で過ごすことが多かった。
そして、さまざまな話題に関して、互いの意見を活発にぶつけ合う。
こんなに会話が楽しいと思うことも珍しかった。
ときどきどちらか一方の見解に未熟な点があると、
他方が完全な知識で補うこともあった。
ベッドのなかでも彼は思いやりがあり、工夫にも富んでいた。

(新潮文庫版『コンタクト 上』 250-251ページ)


ダヘーアはエリーといっしょに過ごすために、
まめに時間を作っていると思われるふしもあります。

ダヘーアはエリーに対してもいろいろな質問をしかけてきた。
最初は各種の活動計画に関する純粋に技術的な問だったが、
それはやがて将来に予想される
さまざまな事業計画にまつわる問に発展し、
ついにはとりとめもない世間話にまで広がった。

最近では、エリーと一緒に時間をすごす口実として
<アーガス計画>関連の話題をもちだしているのではないか、
と思われるくらいだった。

(新潮文庫版『コンタクト 上』 242ページ)

いわゆる「コミュニケーション・スキル」があるし、
相手のことを思った努力も怠らないということです。
それゆえエリーは、いままでの男性とは違うと思って、
惹かれることになったのでしょう。

「恋愛に過大な機能性を見積もる」なんて、
自分の利益しか考えないような非もて氏のような人とは、
ダヘーアはぜんぜん違うということです。

posted by たんぽぽ at 23:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 家族・ジェンダー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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