そして民進党や共産党などのリベラル・左派政党は、
社会的弱者の支持を必要としていないのではないか、
という問題提起をしているエントリがあります。
「なぜ弱者は連帯できないのか|政治には弱者の支持など必要ないのか」
(はてなブックマーク)
社会的強者はもちろん、自身が社会的弱者であっても、
なぜか「自己責任」論を持ち出して、ほかの社会的弱者を
攻撃することばかりに明け暮れていて、
自分たちの困窮の本来の原因である政治や社会に
批判や問題意識が向かわない、という指摘がここにあります。
不思議なのは、その攻撃性が「真面目に働いているのに
暮らせない社会」には向かわず、障害年金や生活保護をもらっている人、
または夫の給料で暮らしていける主婦などの
「個人」に向かっていることだ。
もし、その攻撃性が、批判や分析という正しい形で
社会に向かったら、共感されて力を得るかもしれないのに。
「自己責任」という言葉の効果は絶大だ。
強者がズルしやすく、弱者から奪いやすい社会構造。
「自己責任」の言葉一つで、その構造から目をそらさせ、
強者への批判を封じ、弱者どうしで戦わせることができるのだから。
それで政党や政治家のほうも、社会的弱者のための
政策や施策を打ち出しても支持されないので、
社会的弱者のための政治を行なわなくなる、ということです。
本来は左派の仕事なのに、民進党も共産党も
非正規雇用の改善にあまり積極的なようには見えない。
憲法9条や原発、自民への攻撃それ自体の方が、
ずっと重要と思っているように見えるのだ。
もしかしたら、日本の左派政党は、弱者の支持票など
必要としていないのではないか。
日本人に「自己責任」論を振り回す人が
多い理由のひとつは、「実際は不公平な社会なのに、
公平だと思い込んでいる」ことがあるだろうと思います。
ISSPが2009年に行なった、「社会的不平等に関する
国際意識調査」が示す衝撃の事実です。
「社会的不平等・現実と認識」
「生まれが「モノ」をいう社会」
教育に対する公的支出は、日本はOECD加盟国中最低レベルです。
それにもかかわらず日本人の多くは、日本は北ヨーロッパ並みに、
生まれが影響しない公平な社会だと思っています。


それゆえ少なくない日本人は、「社会は公平なのだから、
自分が努力すれば、たいていの生活苦は解決できる」
「生活が苦しいのは本人が努力しないからだ」と
考えることになり、「自己責任論」が幅を利かせるように
なるのだろうと思います。
2016年4月に自民党の赤枝恒雄衆院議員が、
「義務教育をしっかりやれば貧困はありえない」なんて、
貧困や教育の自己責任論を、児童養護施設出身者の前で
展開して、物議をかもしたことがありました。
これも「日本は公平な社会」という根拠のない
うぬぼれた幻想が、背景にあるのだろうと思います。
赤枝恒雄のような自己責任論に賛同する人も、
実際に少なくないのではないかと思います。
「高校・大学進学は自己責任?」
「義務教育しっかりやれば?」
「女の子はキャバクラへ?」
これは教育のことですが、ほかのことでもよろずに
日本はじゅうぶん公平な社会が達成されていると、
思い込んでいることは多いと思います。
それで社会のいろいろなところで自己責任論が、
噴き出すことになるのだと思います。
たとえば「自力で生活できない人を政府が助けて
あげる必要はない」と考える人が、日本はとりわけ多いという、
「What the World Thinks in 2007」の調査があります。
「「成長論」から「分配論」を巡る2つの危機感」
1つは、日本では「自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない」
と考える人が世界中で最も多くなっている点である
(出典:「What the World Thinks in 2007」
The Pew Global Attitudes Project)。
「助けてあげる必要はない」と答えた人の割合は
日本が38%で、世界中で断トツである。
第2位はアメリカで28%。アメリカは毎年多数の移民が流入する
多民族、多文化の国家であり、自由と自己責任の原則を
社会運営の基軸に置いている。この比率が高くなるのは自然なことだ。
そのアメリカよりも、日本は10%も高いのである。
日米以外の国におけるこの値は、どこも8%〜10%くらいである。
イギリスでもフランスでもドイツでも、
中国でもインドでもブラジルでも同様で、洋の東西、南北を問わない。
経済水準が高かろうが低かろうが、文化や宗教や
政治体制がいかようであろうが、大きな差はない。
こうした国民の意識を反映するかのように、
社会扶助費がGDPに占める割合は、
日本はOECD加盟国中できわだって低くなっています。
国民のみんなが稼いだお金を、税金として集めた国が、その集めたお金の内、どの程度の割合で仕事ができないような状態の人たちを援助しているかという世界比較のグラフ図です。日本を見てください。 pic.twitter.com/Kj4PQJmnhK
— emi kiyomizu (@kiyomizu5) 2015年8月30日
社会扶助費がOECD加盟国中最低レベルにもかかわらず、
政府が生活の苦しい人を助ける必要はないと
考えている人が多いということです。
これも「実際は不公平な社会なのに、公平な社会だと
思い込んでいる」意識のあらわれでしょう。
「自己責任論」を持ち出したバッシングで、
比較的最近のものとして、NHKの特集番組に登場した
貧困高校生に対するものがあると思います。
「子どもの貧困とバッシング」
「子どもの貧困とバッシング(2)」
番組に出た高校生に対して、動画からプライバシーを
暴くなどして、「本物の貧困ではない」などと
決めつける人たちが殺到して炎上しました。
さらに片山さつきがこれに便乗して、
「NHKに説明を求める」とまで言い出す騒ぎになりました。
「自己責任棒でぶん殴って社会的弱者を糾弾し、
本来の原因である政治や社会に対する
問題意識には向かわない」という典型だと思います。
http://nyaaat.hatenablog.com/entry/solidarity
貧困がニュースで取り上げられるとき必ず出るのが、
「その程度で貧困といえるのか」という意見である。
GDP世界3位の国なのに、子どもの6人に1人は貧困家庭。
この1行だけ読んでも、賃金の水準や所得の再分配が
おかしいのが原因であり、自己責任の域を超えていることが伝わると思う。
だが、そういった社会のおかしさは指摘されない。
「日本は公平な社会」幻想は、生活の苦しい層や
社会的弱者とされる層にも蔓延しているものと思います。
それで自分たちの生活の困窮を社会問題と考えないので、
政治で解決することとは考えないのだと思います。
そしてほかの社会的弱者が、公的扶助や福祉によって
政治的、社会的に支援を受けていると、
「ずるいことをしている」と感じるのでしょう。
そしてほかの社会的弱者を「自己責任論」で攻撃する
ということに熱中するのだろうと思います。