サイボウズの青野慶久氏による選択的夫婦別姓の反論の
反論エントリですが、今回はこれを見たいと思います。
「選択的夫婦別姓への反論へ(その3)」
「『外国は別姓も同姓も自由に選べるから
日本も見習うべき』というのは、一般道路の交差点と
鉄道の踏切を同一視するようなものだと思う。」
ここにはふたつの問題があると思います。
ひとつは選択的夫婦同姓の導入は「交差点と踏切を同一視」
というたとえが妥当か、ということです。
ふたつは外国の事例を参照することの意味です。
ひとつ目の、選択的夫婦別姓の導入は、
どうやったら「交差点と踏切の同一視」になるのか
(というより、意味不明な「たとえ」を持ち出すのか)
ということをはじめに考えたいと思います。
反対派(非共存派)は、このような意味不明な「たとえ」を
持ち出してくることがときどきある思います。
ここには、あきらかにだれもがおかしいと思えることを
持ち出せば、選択的夫婦別姓に反対できるだろうという、
戦略的なものがあることが考えられます。
反対派は思いつきでどんな奇抜なことでも言えます。
そのような反対派の持ち出す「たとえ」は奇抜すぎて、
とっさに反論できないこともあります。
それゆえその場で自分が議論に勝ったことにもしやすいでしょう。
こんな奇抜なたとえを持ち出せば反論されなくて
選択的夫婦別姓に反対できるだろう、
などと考えているなら、それは単なる「嫌がらせ」です。
そんな人とまともに議論しても、建設的ではないです。
もうひとつ考えられるのは戦後の民法で規定された
「家族のありかた」を金科玉条のように守る
「家族思想」に対する「信仰」の影響です。
選択的夫婦別姓の導入に教条的に反対する人たちは、
「家族思想信仰」の影響を少なからず受けているでしょう。
そのような「信仰」を持った人たちにとって、
日本で夫婦同姓が強制されなければならないのは、
「そうあらねばならない」と「信じること」です。
論理的、実証的に示せることではないです。
反対派が意味不明な「たとえ」を持ち出すのは、
同姓強制を続ける理由を論理的、実証的に
示せないことのあらわれではないかと考えられます。
あるいは論理的、実証的に考えられないから、
意味不明な「たとえ」しか持ち出せないのかもしれないです。
論理的、実証的に自分の願望を裏付けられないとき、
人は感情むき出しで反発することになります。
その「感情むき出し」になる数歩手前あたりの状態が
「意味不明なたとえ」ではないかと、わたしは想像します。
論理的、実証的に考えられないからおかしなたとえを
持ち出すのなら、そのような人はもっと論理的、実証的な
議論ができるよう、ほかで研鑽することが先だと思います。
とてもまともに議論できる人ではないでしょう。
あるいはわかっているけれど、おかしなたとえしか
出せないのなら、選択的夫婦別姓に反対することに、
論理性、実証性はないということです。
選択的夫婦別姓の反対論は妥当性のない
不当な主張であることを認めて、撤回することです。