関連した選択的夫婦別姓についての記事があります。
青野慶久氏の事情や主張内容について、くわしく解説しています。
「「選択的夫婦別姓」訴訟から考える「家族主義が家族を壊す」現実―― 水無田気流」
この記事では、繰り返し取りざたされる
選択的夫婦別姓の反対派に対する最大の疑問と思われる、
「なぜ選択制なのに反対するのか」について触れています。
これを見てみたいと思います。
選択的夫婦別姓が導入されても、恐らく多数派は選択しないと考えられる。
だが、切実に必要とする人たちがいることも事実だ。
だがなぜこの国では、「他人の生き方」まで拘束したいという意見が多いのか。
選択的、というからには、自分は選択しなければいいだけの話だというのに。
「選択制でもなぜ反対するのか」「他人の生きかたを
拘束したがるのか」についてですが、わたしのブログでも
これまでに何度か言及したことがあります。
「選択制でも反対する理由」
選択的夫婦別姓の話題は「強要か自由選択か」が論点なんだが、「同姓か別姓のどちらにすべきか」という的外れの議論を始める人が必ずいる。お前が結婚相手と同姓を名乗ることに反対してる人は誰もいないから落ち着けと言いたい。問題はお前がなぜ他人の夫婦が別姓を名乗るのが許せないか、だ。
— シュナムル (@chounamoul) 2017年9月22日
このような反対派(非共存派)は、戦後民法で定められた
「家族のありかた」を金科玉条のように守ることが
「宗教」のようになっている人たちだと思います。
「信仰としての家族思想」
「信仰としての家族思想(2)」
かかる「家族のありかたを社会の成員全員が
守ることで社会全体が安定する」という認識が、
「信仰」であり「教義」になっているということです。
「家族思想という信仰」
「家族思想信仰における「異教徒」」
戦後の民法は夫婦同姓とすることが定められ、
夫婦別姓の選択は認められなかったのでした。
それゆえ「夫婦別姓」は、彼ら反対派の「経典」になく、
「教義」に反する「異教徒」ということになります。
やっかいなことに、彼らの「教義」には「信仰」に反する
「異教徒」の存在を認めると、家族が崩壊しひいては
社会が崩壊するという、被害妄想的な「信念」があります。
彼らの「信仰」にもとづく「家族のありかた」は
国民の暮らしぶりが向上する高度経済成長期に定着しました。
それゆえこのような「家族思想信仰」にもとづくことで
人は幸せとなり、社会全体の利益にもなると
確信することになったのではないかと想像します。
彼らの「教義」には「異教徒」を排除することも含まれます。
排除しないと家族や社会が崩壊すると信じているからです。
それゆえ他人が夫婦別姓を選択すること、
つまり「異教徒」になることを容認できないことになります。
かくして彼ら反対派(非共存派)は、自分が夫婦別姓を
選択しなければよいだけのこととは考えられず、
他人が夫婦別姓を選択することまで認められなくなり、
選択的夫婦別姓でも反対することになります。
選択制でも反対するというのは、異質なものを認められない
狭量かつ不寛容であり、自分と関係ない他者の生活に
過剰に介入するでしゃばりというだけです。
ところが彼ら反対派は、「異教徒」に対して不寛容になり、
他者の生活に過剰に介入することを、世のため社会のため
国民全体のためを思っていると確信して、
選択的夫婦別姓に反対することになります。
ここから彼ら反対派は、夫婦別姓を望む人たちに対して、
異様な攻撃的態度に出たり、「夫婦別姓の賛成派は
改姓が不便という個人的な理由で、社会や国家を
崩壊させようとするのだ」などと考える、
傲慢かつヒステリックな発想も出てくることになります。
選択的夫婦別姓の反対派のかかる一連の態度も
一種の「正義の暴走」だと思います。
「正義を懐疑する3条件」
「正しい人が怖いです」
自分たちが奉じる「家族思想信仰」の維持、
夫婦同姓の強制を維持することを「正義」と確信し、
夫婦別姓のような「異教徒」はいくらでも排撃してよい
「絶対悪」と考えているということです。
記事の最後にこのような指摘があります。
「形骸化した「理念としての家族像」」こそ、
ここで述べた反対派が奉じる「家族思想信仰」のことでしょう。
この国の法制度が守ろうとしているのは、
形骸化した「理念としての家族像」であり、
生きた現実の家族生活のほうではないようだ。
残念ながら「理念としての家族像」を現実と思い込んで
守りたがる人たちは、現在の日本には多いようです。
「理念としての家族像」を「絶対正義」と考える家族思想は、
戦後の経済成長によって肯定されていきました。
高度経済成長期からバブル時代までの成功体験が強く、
既得権益層の力がいまだに強いということだと思います。