選択的夫婦別姓の推進派を「モンスター」呼ばわりする
ツイートですが、持ち出しているたとえが不適切で、
そもそもまとを外していると思います。
永六輔がラジオで言ってた話。ある小学校で親が「ウチは給食費払ってます!ウチの子に“いただきます”なんてさせないで!」と。その後たった1人の親のせいで、皆で機嫌良く共有していた文化「皆で揃っていただきます」は毀損され、誰も望まぬ「箇々で」のルールに。モンスターって怖いね。
— ほんづ (@Hiroshi516) 2018年2月16日
このラジオ番組は、全員が「いただきます」を
言わないよう、学校が方針を変更したというお話です。
導入したい制度が「全員夫婦別姓とすることを義務付ける」であれば、
このたとえはいちおう成り立つでしょう。
「いただきます」を「言う」が夫婦同姓に、
「言わない」が夫婦別姓に対応すると考えられるからです。
実際に導入したい制度は選択的夫婦別姓です。
「夫婦別姓、夫婦同姓のどちらでも選べる」というものです。
あえて言うなら「いただきますを言うことも
言わないこともどちらでも選べる」ようになった
学校を持ってこないと、たとえとして不当です。
選択的夫婦別姓推進派は「皆で揃って別姓にしましょう!」なんて言ってないのだから完全に論点がずれている
— わんわん (@wanwan_nz) 2018年2月18日
こういう不可解なたとえ話を持ち出すのを見ると、
いったいなにをしたいのかと思います。
(ひとつ目のツイートから「いただきます」のお話です。
最初からたとえ話でしか議論する気がないようです。)
たとえが適切ならまだ議論する意義もあると思いますが、
この場合はあきらかに外しています。
相手は外していることを指摘する必要が出てくるので、
無駄に時間と労力を使うことになり、
肝心の本題の議論に入れないことになります。
たとえ話なんてまだるっこしいことをしないで、
選択的夫婦別姓の問題を直接論じればいいと思います。
そのほうがずっと簡潔で建設的になるでしょう。
それとも選択的夫婦別姓の問題をまともに議論しても
かなわないから、たとえ話でお茶を濁そうというのでしょうか?
本人は本当に自分のたとえ話が適切だと
思っていることもあるだろうとは思います。
論点を拡散させて煙に巻こうとか、
議論を抽象化して論点をわかりにくくしようといった、
戦略的なものもあるかもしれないです。
傾向として、歳を取ると、物事を説明するのに、たとえ話を持ち出して、より抽象的にしてしまうので、要注意なんですよ。
— U_rey (@U_rey) 2018年2月20日