とくに家族やジェンダー問題で持ち出される「伝統」という
「言いわけ」についての記事です。
「田中優子の江戸から見ると 「伝統」という言い訳」
(はてなブックマーク)
同性結婚と選択的夫婦別姓を具体例にあげて、
これらの反対派は「日本の伝統に反する」を反対の理由に
持ち出してくるという、おなじみのものです。
反同性愛も夫婦同姓も日本の伝統でないことを、
ここでもう一度簡単に確認しておくことにします。
同性愛については、日本はもともとは同性愛に対する
偏見が少なく、古代からあったことがあります。
日本ほど同性愛者への偏見が無い国は珍しかった。
その傾向は古代からあり、貴族、僧侶、武士の麗しき文化として継承され、
江戸時代はそれが庶民に広がったわけなので、
日本の伝統的な宮中晩さん会にそぐわない理由がない。
結婚後の苗字については、明治のはじめに日本が近代的な
家族制度を整備する際、最初は結婚改姓という考えがなく、
夫婦別姓が原則だったと言えます。
その後、不平等条約の撤廃のために、欧米風の法整備が
必要となったので、欧米諸国にならって夫婦同姓を
民法で定めたのが1898年、すでに明治の後半です。
「日本で夫婦同姓になった起源」
「儒教とは何か」を読んでたら初っぱなに夫婦同姓について書かれてて、日本では明治27年まで、内務省から「妻は元の姓を名乗るべし」とされてたのを知った。夫婦同姓が明治以降なのは知ってたけど、明治27年に至るまで、むしろ積極的に「妻は元の姓」とされてたのは知らんかった。
— mipoko (@mipoko611) 2018年1月27日
同姓を名乗れとされたのは明治31年(西暦1898年)。明治も随分進んでから。なんでかというと、不平等条約撤廃のために欧米列強風の法整備が急がれたかららしい。何のことはない、夫婦同姓は伝統でも何でもなく、むしろ儒教由来の同姓不婚の伝統を破って、欧米化するために作られた制度ということだ。
— mipoko (@mipoko611) 2018年1月27日
ふたこと目に「伝統」と言って、因習的、差別的な
家族観やジェンダー規範を正当化する人たちは、
多数派がやっていることに、少数派を従わせようとするためだ、
という指摘が以前ありました。
「夫婦同姓強制・いつわりの伝統」
中央大の山田昌弘教授(家族社会学)も苦笑いする。
「『多数派がやっていること』を伝統と言い換え、
少数派を従わせようとしているだけです。自分と異なる考えを認めない。
それを正当化するために『家族が崩壊する』と言い出す。
最初の記事は、それはもっと矮小なものだと考えています。
「自分の意見=日本の伝統」というものです。
恐らく日本文化についてほとんどご存じないにも
かかわらず知っているような気分をお持ちで、
伝統の定義は「私の意見に合うもの」なのだろう。
自分の個人的な意見やカチカンでしかないのに、
世論の多数派の意見や、社会全体の規範であるかのような言いかたを、
どういうわけかする人がときどきいます。
自分の意見にすぎないものを「日本の伝統」と主張するのも、
このような自分の意見に自信がない人や、
自分の個人的意見であることを隠したい人が、
主語をすり替えた主張だとも考えられそうです。
「恐らく日本文化についてほとんどご存じないにも
かかわらず」という指摘が、最初の記事にあります。
反同性愛も夫婦同姓も日本の伝統ではないですから、
これらは日本の伝統だと書いてあるまともな本はないです。
「選択的夫婦別姓の反対派の自信についての謎」
それゆえ「日本の伝統」論者も、まともな著作で勉強した
はずはないのですが、なぜか自信に満ちて「日本の伝統」と
主張することが相場なのは、なぜなのかとも思います。
よほどしっかりした本に書いてあって、
それでばっちりお勉強をしたと言わんばかりです。
自分の意見にすぎないものを、「日本の伝統」と
主張していることを隠すための「ブラフ」とも思えないです。
「日本の伝統」論者は、「伝統」であればそれは無条件で
維持されるものだと、言わんばかりであることも多いです。
「伝統」というキーワードは水戸黄門の印籠のようです。
なにを「思考停止」しているのかと、わたしは思います。
「伝統」と言っても必ずしもこのましいものとは限らないです。
悪しき因習が「伝統」として定着していることもあるし、
それは積極的に壊す必要があるというものです。
「日本の伝統」論者はこの程度のこともわからないのかと思います。
「伝統」も人間の被造物である「文化」のうちですから、
当然人間が生活するために存在しています。
人間の生活に不都合が生じるようになった「伝統」は、
人間のために壊されたり、作り変えられたりする必要があります。
「日本の伝統」論者のように、はじめに「伝統の維持」ありきで、
それに合わせて人間は生活しろというのなら、
人間が伝統のために存在することになり本末転倒です。
「創造主」である人間への反逆というものです。
記事では、選択的夫婦別姓も、同性カップルの法的保障も、
どちらも認められないのはG7の中で日本だけ、という指摘があります。
しかも欧米の多くの国や州は選択的夫婦別姓となっており、
主要7カ国(G7)の国々で同性カップルの法的保障がないのは今や日本だけだ。
「日本の伝統」論者が「伝統」を持ち出すのは、
人権尊重や多様性の尊重という国際社会の潮流に背を向け、
日本の差別的な因習を維持するためということも多いです。
「日本の伝統」論者は、「伝統」と言えば無条件で
維持されるべきものと信じているようなので、
差別的因習の維持であっても、これで批判者を黙らせられると、
思っていることはありそうです。
選択的夫婦別姓も同性結婚も反対する理由や理屈が
見つからないので、言うにこと欠いて金科玉条のように
「日本の伝統」と言うこともあるのかもしれないです。
「日本の伝統」論者がこのような自分の「因循姑息」を
批判された場合、多く見られる反応は「外国のまねをするな」、
「ここは日本だから日本の伝統に従え」などと言うなど、
「ナショナリズム棒」で批判者をぶん殴ることです。
自分を抑圧するものに対して愛着がわくことはないです。
「日本の伝統」論者が「日本の伝統」の名を借りて、
自分たちが差別されることを正当化してくることで、
被差別マイノリティは「日本の伝統」そのものに
嫌悪感や忌避感を持つようにもなるでしょう。
被差別マイノリティが「日本の伝統」に拒絶反応を示す、
という事態になった場合、「日本の伝統」論者は、
「反日」とか「国家崩壊を企んでいる」とか決めつけるなど、
「ナショナリズム棒」でさらにぶん殴ってきます。
たいていは「ぶん殴る」以外のことができないです。
目先の独善的な差別的な因習を維持するために、
「日本の伝統」を利用したため、「日本の伝統」に対して
嫌悪感や忌避感を持つ人を増やすことを、
「日本の伝統」論者はどう考えるかと思います。