にせ科学批判の右傾化問題、にせ科学批判がネトウヨと
結び付けられて考えられるようになった問題です。
「ニセ科学批判とネトウヨが結び付けられるようになったことについて」
(はてなブックマーク)
今回は最後の節を見てみます。
ここでの指摘は「自分はそうありたいと思う」ことや、
「自分はそうだと思いこむ」ことの問題です。
そうありたいと思うこととか、自分たちはそうだと思い込むことは、
あんまり何かを担保してくれることではない。
ここでは具体的には、にせ科学批判の人たちが
「にせ科学批判に党派性はない」とか
「にせ科学批判はイデオロギーフリーだ」と
言うことがよくあることを、指しているのでしょう。
昔ながらのニセ科学批判は、党派性から距離を置いているつもりの人が多い。
これは「左派が多い」という、上で書いた話とも別に矛盾しない。
もちろん、ノンポリもいる。俺だって党派がかるのは大嫌いだ。
そして「にせ科学批判に党派性はない」と
呪文のように「お題目」を唱えたところで、
本当ににせ科学批判に党派性がなくなるとはかぎらない、ということです。
あるいは「にせ科学批判に党派性がないことの
証明にはならない」ということです。
このような「お題目」を守れていると自分で思っているかたは、
そんな「お題目」をわざわざ声を大にして
唱えないのではないかと、わたしは思っています。
「お題目」を唱えることが多いのは、その「お題目」を自分は
守れていないと思っているからではないか、ということです。
意識しているか無意識のうちに思っているかは、両方あるでしょう。
なぜ守れていない人が「お題目」を唱えるかですが、
その「お題目」の通りになろうと自分を奮い立てる、
その「お題目」の示すようにすでになっていると
自分に暗示をかける、あるいは他者に対して
自分は「お題目」のような人だと思わせる(一種の詐称)、
といったことがあるだろうと思います。
15年前、わたしが関わったことのある
ネットの選択的夫婦別姓の市民団体は、
「多様なカチカンの尊重」というお題目を繰り返し唱えていました。
これも自分たちは多様なカチカンの尊重ができていないと
内心思っていたからではないかと、少し思っています。
実際、彼女たちは選択的夫婦別姓を推進する上で、
自分たちの活動の方針や考えかたと
合わない推進派を、どんどん排除していきました。
わたしも排除されたうちのひとりです。
具体的には民法改正から婚外子の相続差別を
切り離すことに反対の人、家裁認可制案に反対の人、
選択的夫婦別姓の反対派(非共存派)を
批判することに遠慮のない人などです。
「多様なカチカンの尊重」とは真っ向から反する、
自分たちの考えを絶対視し異論を排除する「不寛容」です。
「反対派は譲歩を受け入れるか?」
「極端な人を排除すれば賛成するか?」
「懐柔策は有効か? じつは危険な反対派擁護」
にせ科学批判の人たちが「にせ科学批判に党派性はない」とか
「にせ科学批判はイデオロギーフリー」と
金科玉条のように唱えることが多いのも、
現状のにせ科学批判には党派性やイデオロギー色があること、
そして当のにせ科学批判にかかわる人たちも
内心そう思っているということではないかと思います。
にせ科学批判に党派性やイデオロギーがあると
言う人が出てきた場合、にせ科学批判の人たちは、
「そう思っている人たちの無理解が悪い」と、
一方的に裁断することが多いようです。
説得しようとしないのはなおさらですが、
なぜ「党派性がある」と思う人が出てくるのか、
その原因を調べようともしないみたいです。
自分が誤解されていると思ったら、誤解を解消するためにも、
誤解の原因を調べようとすることは当然のはずなのにです。
現状のにせ科学批判に党派性やイデオロギーがあると
言われても、それを事実と根拠をもって反証することが、
おそらくできないのではないかと、わたしは想像します。
それゆえ一方的に相手の無理解のせい
ということにするよりないのだと思います。