ベルギーの人と国際結婚したかたのお話です。
「前夫と死別→ベルギーで国際結婚。夫婦別姓が「生きやすい」理由」
記事著者が改姓や戸籍に関して苦労したことを
日本人にお話したときの反応に少し触れています。
一般的な日本人のマイノリティに対するスタンスが、
表れているのではないかと思います。
少数派に共感できる社会は生き心地がいい
筆者が体験した様々な不便を挙げると、
日本人の多くは「そんな目に遭う人は貴女くらいなものね」と
哀れみの目で見てはくれても、「別姓が可能なら
助かる人がたくさんいるのにね」と
共感してくれる人はあまり多いとはいえなかった。
記事著者の苦労をいちおうは理解するけれど、
それは「マイノリティだからやむをえない」とか、
「みんなと違うのだから当然」くらいに考えているということです。
「自分を含めた社会が解決を図っていく問題」とは、
彼らは思っていないのでしょう。
それゆえ「別姓が可能なら助かる人が
たくさんいる」という、社会制度を改善する
という発想が、出てこないのだと思います。
子どもの貧困問題やひとり親家庭の問題でも
ありがちですが、被差別マイノリティの問題になると、
「そのようなマイノリティの立場に立つのが悪い」と
言わんばかりの、マイノリティの自己責任論を
振り回す人が一定数出てきます。
そうした自己責任論が蔓延する下地が、
このような一般的な日本人の持っている
「みんなと違うのだから理不尽なのは当然」
「社会が解決する問題ではない」という
マイノリティ観にあるということだと思います。
苦労を強いられるマイノリティなんて、
彼らにとってはせいぜいが憐憫の対象になるくらいです。
憎悪の対象にならないだけ「まだまし」かもしれないです。
それでも被差別マイノリティを憐憫の眼で見ることも、
差別意識のうちになります。
この記事のケースは家族問題ですから、
例の家族思想に対する「信仰」も影響していると思います。
戦後民法で規定され、高度経済成長期に定着した家族を
「標準家族」とする家族イデオロギーです。
「信仰としての家族思想」
この家族イデオロギーに対する「信仰」のもとでは、
「信仰」に合致しない家族を築いている人たちは、
「異教徒」として存在しないかのように黙殺されます。
そして社会制度や社会福祉の対象となるのは、
「信仰」に沿った人たちだけです。
「異教徒」は社会制度や社会福祉から排除されます。
でも目に見える形で迫害されるのではなく、ひたすら存在を無視されるんです。
この国は標準世帯以外の人たちを見捨てることによって、
美しい家族像の純粋性を守ってきました
記事著者のような国際結婚をして夫婦別姓というケースも、
「異教徒」だから苦労するのは当然であり、
社会制度によって解決する対象ではないと、
彼らは考えるということです。
この「異教徒は存在しないことにする」という
家族イデオロギーに対する「信仰」も、
ここでお話したような一般的な日本人のマイノリティ観に
合致するように作られていると思います。
「異教徒だから理不尽な扱いをされてもやむを得ない」
「信仰に従わず異教徒になるのが悪い」だからです。
家族イデオロギーに対する「信仰」は、一般的な日本人の
マイノリティ観のうち、家族やジェンダーに関する
特別なケースとも考えられると思います。