山口一男さまが、選択的夫婦別姓についての
記事を書いていらっしゃります。
わたしのつたないブログにお越しいただいて、
コメントもときどきくださるかたです。
(恐れ多いです、ありがとうございます。)
「選択的別姓問題と個人の自由の価値」
選択的夫婦別姓はパレート改善的制度ゆえに
反対する理由がないことや、サイボウズの
青野慶久氏による夫婦別姓訴訟の一審が敗訴という
悲劇について、考察していらっしゃります。
選択的夫婦別姓の反対派の主張についても
代表的なものをいくつか反論しています。
よそであまり見かけない視点のお話も
あると思うので、ぜひご覧になるといいでしょう。
記事でははじめに、選択的夫婦別姓制度は
「パレート改善的制度」だという指摘があります。
これはそれによって損をするものなく、
得をするものがひとり以上いる制度のことです。
筆者が選択的別姓を支持するのは、
これがパレート改善的制度だからであり、
自由主義的社会制度設計の基本概念にかかわるものだからである。
パレート改善的制度とは、その制度により誰も損をするものはなく、
少なくとも一人以上の人が得をする制度を言う
夫婦同姓と夫婦別姓のどちらでも
選択できるようになる選択的夫婦別姓は、
まさしく「パレート改善的制度」になります。
これは
1. 夫婦別姓を希望する人は
選択肢ができて得をすることになる。
夫婦同姓を希望する人は、従来どうり希望の
選択ができるので、損をする人はいない。
2. 夫婦別姓と夫婦同姓のどちらを選択しても、
それで損害を受ける他者や周囲がいない、
つまり「負の外部性」がない。
という、ふたつの条件があります。
ここで言う「負の外部性」には、
「他者の権利侵害を制限されることによる
心理コスト」が、増大することは含まないです。
べつだん自分に危害を与えないのに、
「あいつらは夫婦別姓で不愉快だ」と考える、
といったたぐいのことです。
そんなことを言い出したら、
選択的夫婦別姓を望む人たちからしたら、
反対派(非共存派)なんて「不愉快」を
通り越して「恐ろしい」くらいです。
「存在が恐ろしい」という理由で、
権利を制限されるのは、反対派(非共存派)は
とても受け入れられないでしょう。
(推進派はそんな要求をしていないですが。)
「気に入らないから反対」なんて
ただの感情的反発にもとづく人権侵害です。
そんなものを民主社会の制度設計に
組み入れることは論外であり、
はじめから除外して考えることです。
「妻が旧姓に戻してほしくない」とか
「結婚相手の女性が改姓したくないのは嫌だ」も、
「負の外部性」に含まないでしょう。
これらは女性に望まない改姓をさせるので、
他者の権利の侵害になります。
「同姓派男性の自分の問題」
「同姓派男性の自分の問題(2)」
権利の侵害を制限されることで、
権利を侵害されない人が得をすることになります。
これは「増える得をする人」のほうに、
カウントすることです。
「選択的夫婦別姓は選択肢を増やすだけだ、
被害を受ける人はだれもいない」ということは、
これまでもよく言われてきたと思います。
これを「パレート改善的制度」という用語で
表現することで、改めて認識することは、
意義のあることだと思います。
「パレート改善」「パレート最適」ということばは、
日本ではあまり使われないようです。
わたしもお恥ずかしながら、
ぜんぜん聞いたことがなくて、知らなかったです。
日本において選択的別姓のパレート改善性に
言及したものがあるかどうか検索したら、
2017年の青山学院大学の『青山国際政策論集』で
瀬尾佳美・飯坂ひとみ共著の論文があることが
分かったが、それ以外には見当たらない。
パレート最適とかパレート改善という
用語は経済学者の一部を除いて
日本で多く用いられることはないからであろうか。
ことばで表すのは概念を理解し
浸透させるのに重要かつ効果的です。
せっかく選択的的夫婦別姓の特徴を表す
適切で的確なことばがあるのですから、
効果的に使っていくのがよいでしょう。
欧米の民主主義国では「パレート改善」という
概念はじゅうぶん認識されていて、
左右いかなる政治的スタンスの人でも、
パレート改善的制度に
反対することはなくなっています。
被害を受ける人がいなくて、だれかが利益を
得るのですから、これに反対するほうが
おかしいのであり、その判断が政治的立ち位置に
依存する余地はないでしょう。
「パレート最適性」が政策の是非の
判断基準のひとつになっているくらいです。
米国では自由主義的哲学(あるいは功利主義哲学)の基礎概念である。
例えば米国で政治哲学に大きな影響力をもった
ジョン・ロールズの『正義論(1971)』も
パレート最適性を一つの判断基準としている。
パレート改善的制度は、例えば税制による
所得再配分などと異なり、米国では右は自由至上主義者
(リバタリアン)から左の社会民主主義者も
等しく反対することがない、その意味で自由を尊ぶ国では
誰もが賛成できる制度だと欧米圏では考えられている。
「パレート改善」やこれ以上パレート改善が
できない状態を示す「パレート最適」の優先は
自由主義的社会制度設計の基礎である。
だがなぜか日本ではそれが尊重されない。
なぜか日本では、「パレート最適性」が
重視されず、「パレート改善的政策」でも
反対する人たちが少なくないのでした。
これはどういうことかという問題があります。
パレート改善的政策は、自由を尊ぶ国なら
だれもが賛成すると、欧米の民主主義国では
考えられているとあります。
パレート改善を理解しない日本は、
実は自由を尊ぶ国ではないのではないかと、
考える必要もありそうです。