婚姻の平等に反対していることになります。
なぜ彼ら反対派(非共存派)は婚姻の平等を
認めようとしないのか、その問題について考察した、
専門家へのインタビュー記事があります。
今回はこれを見てみたいと思います。
「なぜ右派は婚姻の平等に反対するのか。専門家に聞いた。」
(はてなブックマーク)
彼らにはあるべき「自然な家族」と
あるべきでない「自然ではない家族」という概念があります。
「自然な家族」の地位ないし価値を
維持するために、「自然ではない家族」の
ありかたを認めないことになります。
「彼らは〈自然な家族〉という言い方をしますが、
この<自然な家族>が高い地位にあって、
〈自然ではない家族〉のあり方を認めると
相対的に自然な家族の価値が下がると思っています」
「多様な家族のあり方を認めると、
本来あるべき家族の価値が損なわれてしまう
というのが彼らのロジックなんです」
これは戦後民法によって規定された
家族のありかたを「あるべき」として
金科玉条のように守るという「家族思想」が
「信仰」になっている人たちの考えかたです。
「自然な家族」は彼らの「信仰」に
もとづいた家族で、夫婦同姓が該当します。
「自然でない家族」は「信仰」から外れた「異教徒」です。
夫婦同姓や同性結婚は、戦後民法で
規定されないので、「異教徒」になります。
「すべての人が夫婦同姓となることで
結婚の価値がある。夫婦別姓の人がいると、
結婚の価値が失なわれる」という、
選択的夫婦別姓の反対派にときどき見られる
不可解な同調圧力があります。
「他者の権利を侵害する「価値」」
同姓を望む人は、夫婦=同姓になると言う価値に重点を置いています。
— Iori Yamashiro@那覇市民 (@iori_yamashiro) 2019年5月12日
それが別姓になれば、例えば選択制であっても、その夫婦になると言う価値を失う、損なうという事にもなりうるのです。
そうなればその方々にとってジメジメした想いをされることになるでしょうね。
これは彼らの「家族思想」に沿って
「自然な家族」と「自然でない家族」の
ヒエラルキーに区分しないと、
「自然な家族」の地位が保てないという思想の
表れだったということです。
「家族思想」の「信者」たちは、
同性結婚や夫婦別姓のような「異教徒」を
対処する場合、まず「改宗」を試みます。
「改宗」ができない場合は、「排除」にかかります。
「信者」たちには「改宗」「排除」のほかにも
まだべつの「異教徒対処法」があるようです。
「異教徒」を「二級市民」として扱うというものです。
彼女たちは“異なる人々は、異なる扱いを
受けるのがあるべき姿だ”と考えています。
そのようなロジックのもとに、“違いに基づいて、
銘々が分をわきまえるならば
悪いようにはしない”というのが
右派のさまざまなマイノリティに対する考え方だという。
「こうした発想を理解するには
社会心理学で〈社会的支配志向性〉と
呼ばれている心理特性が参考になります。
俗な言い方をすれば“分をわきまえろ”という考え方です」
「二級市民」を作るだけで、論を待たずして差別的です。
ところが「家族思想」の「信者」たちは、
「異教徒」は自分たちとは異質な存在だから、
「二級市民」と認定して当然であり
差別ではない、などと考えます。
そして「二級市民」をその「身分」にふさわしい
扱いをするのも当然であり差別はないとも、
「信者」たちは考えているわけです。
実に思い上がった考えと言わざるをえないです。
「家族思想」の「信者」たちは、
「われわれは異教徒を改宗させも排除もしない、
二級市民として存在を受け入れているから、
寛容であり共存している」と独りよがりに
納得して悦に入るのでしょう。
さらに「信者」たちは、お前たち「異教徒」が
「二級市民」の分に甘んじるなら、
われわれはお前たちに危害は加えない、とも考えます。
これはまさに右派の発想そのもので、
“差別の解消、すなわち同じ扱いを
要求しないのであれば、(理解増進を図って)
酷いことはしないぞ”という意味でしょう」
どういう「二級市民」が「分に甘んじている」かは、
「一級市民」の都合で決められます。
「モデル・マイノリティ」と同じで、
「一級市民」に逆らわず、「一級市民」優位の社会に
有益な貢献をする「二級市民」が
「分に甘んじている」ということです。
「モデル・マイノリティ概念の差別性」
「一級市民」たちは「二級市民」を
「分に甘んじている」「分に甘んじていない」にわけて、
「甘んじていない」ほうを攻撃します。
こうやって「二級市民」を分断し、
自分たち優位の差別構造の温存をはかるのも
「モデル・マイノリティ」の分断と同様です。
「右派の基本的なロジックは、
“権利を要求せずおとなしくしていれば、
そう酷いことはしないぞ”というものですから、
大きな声を上げないようにしようという
生存戦略には一定の合理性があるとは言えます」
「しかし、そのことによって差別される側は分断されてしまう。
そして、そのような生存戦略を取る限り、
差別的構造は温存されてしまうのです」
付記:
記事で婚姻の平等に反対する人たちを
「右派」としています。
この「右派」は日本会議や日本会議と
同じような政治思想を持つ人たちとしています。
ここで言う「右派」とは、 保守系宗教団体が結成した
「日本を守る会」と保守系文化人や財界人の団体
「日本を守る国民会議」が1997年に合流して
成立させた「日本会議」に属する人々、
および「日本会議」と同様の政治的思想をもつ人々を指す。
わたしが何度もお話する「家族思想」は、
日本会議のの家族観でもあるということです。
このような「自然な家族」観を持っている人は、自分がそれを実行するだけならともかく、何でた他人にまで観賞したがるのでしょうね。
他人が夫婦別姓で困ることがあるのでしょうか。
こちらにコメントありがとうございます。
お尋ねのことは、選択的夫婦別姓の
反対派についての、最大の疑問だと思います。
もともと不可解なことであり、
すっかり理解できることは、おそらくないのでしょう。
こうではないかということを、
考えていくことになると思います。
このエントリで考えているのは、
反対派は自分たちが信奉する「自然な家族」と
信奉していない「自然でない家族」という
ヒエラルキーを作っているということです。
そのままこのヒエラルキーを主張すると
自分たちが不寛容で抑圧的になります。
そこで「自然でない家族が権利を得ると
自然な家族が価値を失なう」などと言って、
仮装被害者を演じるということです。