歴史的失策によって、少子高齢化を緩和する
最後の機会をなくしたという、
みらい選挙プロジェクトの三春充希氏の
ノートを見てきました。
「そしてあの時、少子化を避ける最後の道をなくした」
このノートの最後のほうに次の指摘があります。
「子供産まない方が問題」は具体的には、
麻生太郎の発言を意識していると思います。
政治が考えるべき問題はそこなのです。
それなのに「子供産まない方が問題」などと
ふざけたことをいう政治家がいるのは
どういうわけでしょうか。
様々な経済的な波乱がある中で、子供を産み、
育てることができるようにバランスをとり、
支援するのが政治の役割なのではありませんか。
子どもを持てない人が増えているのは、
子どもを産み育てやすい環境を
整えてこなかった政治に責任があります。
それは最初のノートでも、わたしのエントリでも
指摘していることです。
それを「子どもを産まないほうが問題」などと、
子どもを持てない個人の「自己責任」にして
転嫁するのですから、いったいなにを
考えているのかというものです。
発言した麻生太郎は、子どもを持ちにくい
環境をずっと放置し続けることで
「歴史的失策」を引き起こした立場です。
ノートを書いたかたは、かかる「歴史的失策」という
おおいなる負債を背負って、令和の時代を
生きなければならない世代です。
「失策」を起こした本人から
「失策」の負債に加えて「失策」の責任まで
押し付けられるということです。
その心境はいかほどかと思います。
「子どもを産まないほうが問題」というのは、
子どもを産み育てることに
経済的困難の少なかった時代の男性、
つまり「昭和おやじ」の感覚なのでしょう。
「昭和おやじ」のこのような感覚など、
「歴史的失策」を起こした世代である
平成のオトナから見ても時代遅れです。
麻生太郎のような人はふたつ前の時代に
とどまっていることになります。
平成を乗り越えなければ、令和は生きられないです。
令和を生きるためにも、「昭和おやじ」の
感覚からいいかげん脱却して、
平成を乗り越えろと思います。