2019年08月03日

toujyouka016.jpg 差別を伝統で正当化する別姓反対派

選択的夫婦別姓の反対派(非共存派)は、
夫婦同姓は日本の伝統だと、よく言います。
これは差別を伝統で正当化している、という指摘です。

大問題があるのはあたりまえすぎるのか、
はっきり指摘するかたは、
あまりいないように思います。
一度はっきり言ったほうがいいことでしょう。

 


夫婦同姓の強制が日本の伝統なら、
「日本の伝統は差別」ということになります。
選択的夫婦別姓の反対派は、
伝統が差別である(差別が伝統である)ことに、
問題を感じないのかと思います。

夫婦同姓の強制は日本の伝統と言ったところで、
差別の正当化にならないどころか、
「その伝統は差別で汚れている」と、
主張することにもなるでしょう。

選択的夫婦別姓の反対派は、
伝統であれば差別でもかまわないと
思っているのでしょうか?
あるいは伝統だと言えば、差別が差別で
なくなるとでも思っているのでしょうか?

伝統であっても差別であれば許されないです。
またいくら伝統を主張しても、差別が差別で
なくなる、ということもないです。


選択的夫婦別姓の反対派(被共存派)は、
「日本の伝統」と言えば、水戸黄門が印籠を
出したときみたいに、だれでもひれ伏すと
思っているのかもしれないです。

その「伝統」によって差別される人たちが、
そんな伝統をありがたいと思うはずないです。
反対派(非共存派)はこんなあたり前のことも、
わからないのかと思います。

被差別マイノリティが拒絶反応を
示すのを見て「お前たちは日本の伝統を
否定するのか!」と、「ナショナリズム棒」で
ぶん殴ろうと構えているのかもしれないです。

「ナショナリズム棒」でいくら殴られても、
自分たちが差別されることを
受け入れる人なんているはずないです。
自分たちを差別し殴る口実である
「日本の伝統」そのものに対して、
敵意や憎悪を持つようになるだけです。



付記:

伝統を懐疑する3条件。
1.はわりとよく議論されることだと思います。
ここではあまり問題にされることが
なさそうな、2.に注目したということです。

「伝統回帰論への懐疑」

1. 本当に伝統か?わりと新しいものではないか?
2. その伝統の利益は万人が享受できたのか?
 だれかを犠牲にしていないか?
3. 本当に伝統に帰れるのか?

「伝統」というのは「因襲」の積み重ねと言えます。
その因襲はたいてい社会的強者や
既得権益者の利益や都合で作られます。
彼らは立場が強いゆえに、自分たち中心の
社会通念を定着させやすいからです。

それゆえ「伝統」は多かれ少なかれ
だれかの犠牲の上に成り立っていて、
差別的要素があると思っていいでしょう。


一般に古い時代というのは、社会が未成熟ですから、
構成員全員の幸福を実現できないことが多いです。
それで、たいていは構成員のだれか(通常は弱い立場の人間)を
犠牲にして、特定の人たちだけの幸福を計ることで
社会を統合せざるを得なくなります。

むかしから続いている「伝統」とは、このように弱者の犠牲を
固定化させたものを維持していることが多いので、
万人が利益を享受できないことが多いことになります。

特定のだれかを犠牲にした社会システムが
不健全であることは言うまでもないでしょう。
それを「伝統」の名のもとに正当化する人たちは、
おうおうにして、だれかの犠牲の上に、
利益を吸い取る側であることが多いです。

posted by たんぽぽ at 23:12 | Comment(0) | 民法改正一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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