藤田孝典氏の記事は岡村隆史氏の
発言を歪曲しているなどと言っている記事の
さらにさきを見てみることにします。
「岡村隆史さんの発言を「曲げて」発信することはやめるべきである」
「岡村隆史を最初に糾弾した記事タイトルや見出し」
という中見出しで本題に入るのですが、
このセクションは短く終わります。
そして「「場面」と「文脈」の大切さ」という
中見出しでまた一般論を続けます。
そのやたら長い一般論を抜けると
「@発言した場面について」という
セクションが出てきて、ようやく岡村隆史氏の
「風俗嬢」発言のお話をするようです。
記事作者は、岡村隆史氏の「風俗嬢」発言が
出てきたのは、リスナーをいやす
コーナーであり、リスナーを責めることは
想定されていないと言っています。
「深夜」に「性にまつわる嫌な出来事」に関する
リスナーからのハガキについて
「相談には一切のりませんが,FMっぽくいや」すことが
前提のコーナーである。「いやす」のであるから,
リスナーを責めることは想定されていないだろう。
だからなんだと言うのでしょうか?
これで記事作者はなにを言いたいのかわからないです。
「リスナーを癒すコーナーであって、
リスナーを責めることを想定してない、
だから女性を性的搾取することを礼賛する
差別発言をしてもかまわない」とでも、
この記事作者は言いたいのでしょうか?
差別発言はどのような趣旨の
コーナーでも、許されないことです。
「リスナーを癒すコーナー」であることは、
差別発言の「免罪符」にはならないです。
岡村隆史氏の「風俗嬢」発言を批判する人たちは、
投書したリスナーのことは批判していないです。
槍玉にあがっている藤田孝典氏の記事も
リスナーのことは言っていないです。
だれもリスナーを問題にしていないのに、
「リスナーを責めることを想定していない」なんて、
「リスナーの扱い」について念を押す記事作者は
いったいなにをしたいのかと思います。
さらに「番組では岡村隆史氏は風俗の
お話をすることが前提になっている」とも、
この記事作者は言っています。
風俗の話を岡村隆史さんがする可能性は,
この番組においてはもはや当然の前提となっていた
だからなんだと言うのでしょうか?
これで記事作者はなにを言いたいのかわからないです。
「風俗のお話をすることが前提なら
差別発言をしてもかまわない」とでも、
この記事作者は言いたいのでしょうか?
差別発言はどんな場合でも許されないことです。
風俗のお話をするときもしかりです。
記事作者は自分がしめしたこれらふたつを
岡村隆史氏の発言を批判する人は触れないなどと、
あたかも問題があるかのように言っています。
岡村隆史さんを執拗に叩き続ける論者は,
このような「場面」での発言であったことを
殆ど(あるいは全く)記事に書かない。
どのような「場面」での発言であっても関係がない,
という立場なのかもしれない。
触れない理由はいたって簡単です。
前者の「リスナー」は「岡村隆史氏の発言の
問題とは関係ないから」です。
後者の「岡村隆史氏は風俗の話をしている」は、
「言うまでもないわかりきったことだから」です。
簡単にわかることかつなにも問題ないことを、
問題視する記事作者はまったく不可解です。
この記事作者は「「場面」と「文脈」の大切さ」
などと中見出しにして言っています。
ところが「リスナー」うんぬんなんて、
だれも言っていなくてどう関係があるかも
わからないことや、「風俗の話をしている」なんて
自明なことを、この記事作者は言い出します。
それでなにを言いたいかわからない主張を
延々と続けるこの記事作者こそ、「場面」も「文脈」も
理解していないのではないかと思います。
セクションの最後で、この記事作者の
「かんねこ」はこんなことを書いています。
上述した「場面」での発言であることを知っても,
「公共放送であの発言はとんでもない!
謝罪しても許さない!」などと
岡村隆史さん個人を責め続けたくなったであろうか。
少なくとも,「場面」を具体的に知っているかどうかで
発言の「印象」が変わった者はいるのではないか。
「リスナーを責める場でない」ことや
「風俗の話をする前提」であることは、
岡村隆史氏の「風俗嬢」発言の差別性に
「免罪符」になると、「かんねこ」は本気で
思っているのかもしれないです。