すこし前のことで恐縮ですが、おなじみ(?)『macska dot org』で、
市民団体のおちいりやすい状況についての、エントリがあります。
「「館長雇い止め」を「バックラッシュ裁判」として闘ったことの帰結」
http://macska.org/article/200
「市民運動の閉鎖性と公共性についてのメモ」
http://macska.org/article/203
ご存知のかたもいらっしゃると思いますが、
「館長雇い止め・バックラッシュ裁判」というものがあって、
原告の三井マリ子さんを支援している、
「ファイトバックの会」というものがあります。
くわしくは、当該ウェブログをご覧いただけたらと思います。
http://fightback.exblog.jp/
言わんとしているのは、同じ考えの人が集まって、
自分たちだけの世界にひたっているうちに(集団分極化)、
第三者の存在が意識されなくなっている、ということです。
そしてファイトバックの会は、三井さんの「ファンクラブ化」して、
外部の人が見ると、「カルトのよう」な異様な雰囲気をかもしだし、
おなじ考えを共有しない人に訴えなくなっている、ということです。
ファイトバックの会のひとりのかたから、コメントがありまして、
このあたりをめぐって、しばらく議論になっていました。
リンクがつぎのエントリに並べてありますので、
興味のあるかたは、ご覧になるとよいでしょう。
「館長雇い止め裁判「不当判決」からのあれこれ」
http://pulpdust.org/item/257
ファイトバック会のかたからの反論は、まことに残念ながら、
自分たちが正義と思っていることに、思いがけない反論が来て
切れちゃったという感じが、わたしにはしてしまいました。
「男性の視点の限界」も、支持している政治家がだれなのかも、
この際関係ないし、「内ゲバ」でもないでしょう。
ようは、まったく利害と関係のない第三者の存在を、
当事者たちが意識できているかが、問題なのだと思います。
一般に、集団の均一性が高くなると、自分たちにとって
都合のよい意見ばかり耳に入るようになって、
(あるいは異論があっても、自分たちに都合のよいように
解釈されるようになって)、外部の人たちから、
自分たちの考えが乖離してきても、無頓着になってきます。
市民運動を行なっている団体も、「均一性の高い集団」ですから、
残念ながら、こうした状況におちいりやすいことになります。
そうなるのを防ぐには、どうしたらよいかといえば、
「みずからを客観的に見つめ、自己検証する態度が必要である」
というのが、優等生のお答えになるでしょう。
とはいえ、政治活動は、それなりに強い意志がないと
続けられないところもあり、特定方向に思いつめる必要もあるでしょう。
となると、思い込みや、自分たちへの確信が強くなるのも、
ある程度はやむをえないのかもしれないです。
みずからを客観視できるくらいの、「醒めたあたま」では、
情熱がわかなくなって、活動が続かなくなるかもしれないです。
したがって、均一性が高くて思い込みの強い集団は、
異様な方向へ走りがちですが、それに歯止めをかけられるような、
自己検証ができるくらいだと、運動が続かなくなるという、
ジレンマが出てくることになります。
それでたいていの市民運動は、じつは失敗しているのでは?なんて、
シニカルなことを、わたしは思っていたのですが、
macskaさまも、同じようなことをお考えだったようです。(うーむ...)
http://macska.org/article/203
|これは別にファイトバックの会だけが特に酷いというわけではなくて、
|おそらく多数の運動体は同会以上に酷いのだろうけれども、
|ブログを持っているファイトバックの会だけ
|問題点が見えやすくなっているということ。