からんだやりとりですが、水葉さまのブログ削除と、
jabberwockさまのエントリ保留で、きゅうに収拾がついた感じです。
それでも、水葉さまのエントリについて、
取りざたしているかたも、まだまだいらっしゃりますし、
わたしも、思ったことがありますので、お話したいと思います。
すでに水葉さまのウェブログは、なくなっているし、
「しかばねに鞭を打つ」の感もなきにしもあらずです。
しかし、「無責任な逃げだ」という、ご意見もあります。
また今後こうしたことが、起きないようにするためにも、
うやむやにするほうが、かえってこのましくないように思います。
水葉さまも、ご他聞にもれず、「水からの伝言」の議論を、
「理性」と「感情」の二項対立で語っています。
そしてご自分は、「感情」の側だとして、みずからを肯定しています。
この二項対立が、わたしには、そもそもわからないことです。
「らんきーブログ」の支持者たちには、「都合悪い批判を黙殺したい」
「おともだちをかばいたい」以外の動機がないと思いますし、
それで、どこが「情に熱い」のかな?というのが、率直なところです。
一連のエントリでは、この二項対立を前提として、
「理性」のサイドはインテリ男性中心的だ、なんて書いています。
わたしに言わせると、このような図式には、なってないと思います。
「水からの伝言」は、むずかしい理論はないですし、
ぶいっちゃん氏や、コアのかばった人たちは、みんな男性でした。
「銃は敵に向けろ」とか、「内ゲバを起こすな」とも、
(その前に「敵」とか「内」とはだれ?という疑問もあるが)、
言うのですが、それよりも、一連の騒動が、
外部のかたたちにどう見えるかが、大事なのではないかと思います。
これは、政治活動というのは、不特定多数に、
自分たちの主張を理解してもらうのが、前提だからです。
わたしに言わせれば、にせ科学に傾倒したり、
かばったりしたことが露呈した政治活動体は、
信頼をなくして、衰退していくもののようです。
非常識なことをしているのが、はた目にまるわかりですし、
ただでさえ、政治活動というと、警戒の眼で見られるのに、
「うさんくささ」に拍車をかけるからだと思います。
わたしが、むかしかかわった、選択別姓の市民団体も、
にせ科学をかばったことで、かなりダメージを受けました。
まさに「反知性的と見られたから、なにもできなくなった」のでした。
http://taraxacum.seesaa.net/article/63366940.html
http://taraxacum.seesaa.net/article/63367686.html
「らんきーブログ」の支持者たちのいわゆる「感情」のほうが、
不特定多数の支持を「取り込める」と言うのなら、
今度のことで、「まちがっていても、それを不問にする
みなさんのやさしさに共感しました」と感激した人が、
「外部」(身内以外)にどれだけいたかを、考えてみればいいでしょう。
『週刊金曜日』で引用されている、good2ndさまは、
「外部」でしょうけれど、共感しなかったと、おっしゃっています。
はてなのブックマークも、「外部」のかたが多いと思いますが、
「気持ち悪い」という意見もあったりしました。
感情をベースにしても、「外部」の人には、とても共感しえない、
非常識なことと思われていると、わたしは思います。
運動論を問題にしたいのなら、一部だけ引用しますが、
つぎのエントリの指摘のほうが、わたしは当てはまると思います。
「市民運動の閉鎖性と公共性についてのメモ」
http://macska.org/article/203
自分たちに都合の悪い決定をした人たちの動機や人間性にまで立ち入って
これでもかというほど貶めたりと、ほとんど自分たちの仲間しか
読んでいないと思っているのではないかと思うくらい、
みっともないほど他者の視線に無頓着な内容だ。
「わたしたち仲間」の心地良い同質性に浸っているのか、
そこから這い出して他者と出会おうとするのか、それだけが問題だ。
他者というのはもちろん、ただ単に「他の人たち」という意味ではなく、
自分たちとは価値観の違う共同体や個人のこと。
まことに「たんぽぽテイスト」溢れるエントリーですね(笑)
あと俺自身はどっかで
「はあ?誰が『謝罪要求』なんてものをしたんでっかね?事実を捏造しちゃいけませんや」っつーのもいいたかったんだが、それについちゃ玄倉川さんが見事なエントリーをあげて下さったんで加える事はないやね
ただの空疎な「革命的心情」のみを優先させた
当然の結果なのです。
その限りでは、すべてが根底的に間違っていたわけで、
「銃は敵に向けろ!」ですむ話ではないのです。
酷な言い方をすれば、思慮の足りない連中が
馬鹿なことをやって自滅したというだけのことです。
こういう言葉が無自覚に出てくるということは、
やっぱり「論理」よりも「心情」に流れやすい人だな
という印象を持たざるをえません。
そういう「心情倫理」こそが、あのようなとてつもない
悲劇を生んだ原因のひとつだと私は思うのですけどね。
>まことに「たんぽぽテイスト」溢れる
なんかもう、ほとんど無意識のうちに、
そう書くようになっちゃったみたい。
このエントリは、jabberwockさまのところで、コメントしたものに、
すこし加筆しただけで、まったくの書き下ろしでないので、
なおさら熟しているのかもしれないです。
http://s02.megalodon.jp/2008-0417-1450-47/blog.livedoor.jp/jabberwock555/archives/51265877.html
>誰が『謝罪要求』なんてものをしたんでっかね?
おお、NORTON3rdさまも、「謝罪要求なんてないはず?」って、
気がついていらしたのね...
(玄倉川さんのエントリは、まさしく、
「実証的態度はこういうものだ」という感じですね。)
でも、「たんぽぽの謝罪要求がしつこかった」
という印象は、ことのほか強かったりしますよ。
関係者から距離が開いていて、傍目八目的なポジションのかたでも、
そう思っていたりして、がっかりさせられるんだけど。
かつさま、コメントありがとうございます。
わたしは、「連合赤軍」というのを、ぜんぜん知らなくて、
(「あさま山荘事件」は、聞いたことくらいはあったけど...)
「総括」ということばも、連合赤軍から来ているのを、
このときになって、ようやく知ったしだいですよ。(苦笑)
でもって、ちょっとだけ調べたんだけど、閉鎖的な集団の中で、
無批判になって、おかしな方向へむかっても、歯止めが効かなくなったという、
よくありがちなパターンだというのが、なんとなくわかったです。
(わたしも、連合赤軍の悲劇は、らんきーブログや、
水葉さんたちのほうが、よくあてはまると思います。)
「総括」=「暴力による殺人」でないのは当然のことで、「日本では3日に1人の女性が、夫から『総括』され命を落としています。」というような用例が(意味的にも)成立しないのは明らかです。
コメントありがとうございます。
このたびは、いろいろと大変だったと思います。
いまさらですが、おつかれさまでしたと、もうしあげます。
>「総括」
やはりというか、もともとは、政治的ニュアンスのない
ことばだったわけですね。
(政治と無関係に使われることも、いまもときどきありますね。)
段階はあるみたいだけど、いずれにしても全共闘時代に、
政治的色彩を、帯びるようになったのですね。
>「日本では3日に1人の女性が、夫から『総括』され
>命を落としています。」というような用例が
それ、最初見たとき、夫から「○○について反省しろ」と、言われつつ、
暴力を受けることなのかと、思ってしまいましたよ。
(単純に、「総括」=「暴力による殺人」と考えているのなら、
彼女は、すっかり意味を、取り違えていらっしゃいますね。)
たとえば、私のブログからの孫引きですみませんが、加藤紘一は、右翼は先の戦争を、左翼は社会主義をそれぞれ総括することが求められていると著書「テロルの真犯人」に書いています。
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-216.html
また、私自身、ほかならぬ「水伝騒動」について、「総括」という言葉をタイトルに用いた記事を書きましたが、いうまでもなく一般的な意味で用いています。
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-551.html
そうなると、
「日本では3日に1人の女性が、夫から『全部まとめてふりかえる』(ことを)され命を落としています。」というのはさらにめちゃくちゃになります。
「全部まとめて振り返る」のは恐らく1日に何万人の夫がやり、そのことで命を落とす妻というのはごく少ないと思われます。
1月の件も今回の件も、じつは背景にこの「言葉に対する杜撰な感性があったのではないか」とも私は考えています。
そういえば、「総括」って使ってましたね。
でも、そうしょっちゅう使うことばでもないような...
(ご紹介のエントリ、両方とも、一般的な意味だ
というのはわかったけれど、「総括」なんてことばを
使うこともあるんだ、なんて思ったりもした。)
jabberwockさま、いらっしゃいませ。
コメント、ありがとうございます。
>「言葉に対する杜撰な感性があったのではないか」
内輪受けのきわだったもの、というか、
そのときかぎりの隠語というか、そんな感覚なのかもしれないですね。
(ご本人は、案外ウィットを、利かせているつもりなのかも...)